Burning Red Riding Hood

著:紫水街

※この作品には暴力、ホラー、その他グロテスクな表現などが含まれています。

 昔々あるところに、赤いずきんがとてもよく似合う女の子がいました。

 そのずきんは、おばあさんに貰ったものでした。おばあさんから赤いずきんをもらった女の子は、寝るとき以外はいつもそのずきんをかぶって暮らしていました。それがとてもよく似合っていたので、いつの間にかその女の子は、みんなから赤ずきんちゃんと呼ばれるようになっていました。

 ある日のことです。

「おばあさんの具合が悪くなったらしいわよ」

 お母さんからそれを聞くなり、赤ずきんは飛び上がりました。
 おばあさんは腕のいい猟師で、森の中で暮らしています。赤ずきんは、よくおばあさんのところに遊びに行っていました。赤ずきんは、おばあちゃんっ子だったのです。

「まあ、大変! きっと森の中で寂しい思いをしてるわ、お見舞いに行かなくちゃ」

「それじゃ、これを持っていってあげなさい」

 お母さんが赤ずきんに渡したのは、上等なパンとぶどう酒でした。司教様の祈りが捧げられた、神聖なものです。本来は聖体拝領せいたいはいりょうに使うものですが、これならおばあさんの病気もすぐに治るでしょう。

「いいこと、舗装された道から外れては駄目よ。それから、狼に気をつけるのよ! 狼は嘘つきだからね。もし出会っても、絶対に着いていかないこと。着いていったら食べられちゃうからね」

「はい!」

 赤ずきんは元気よく返事をして、家を出て歩いていきました。
 森まではそんなにかかりません。しばらく行くと、すぐに森の入り口が見えてきました。
 森を南北にまっすぐ貫くようにして一本の道路が通っています。石畳で舗装されており、森の獰猛な動物たちも迂闊には踏み込んできません。そこを通っていけば安全におばあさんの家まで辿り着ける、そのはずでした。

「やあ、お嬢ちゃん。かわいらしいずきんだねえ」

 森に入ってしばらく経った頃、急に背後から声をかけられました。振り向いた赤ずきんの目の前に二本足で立っていたのは、ずる賢そうな顔の狼です。
 舗装された道で狼に出会うのは初めてなので、赤ずきんはとても驚きました。けれども、恐れることはありません。狼というのは開けた場所、人目につく場所では襲ってこないのです。舗装された道にいれば大丈夫なはず。

「こんにちは狼さん。でも急いでいるので失礼するわ」

 赤ずきんは振り返ってそのまま森の奥へと進んでいきました。けれども、狼はニヤニヤと笑いながらそのあとを追いかけてきます。

「お嬢ちゃん、そんなに急いでどちらまで?」

「あなたに話す必要はないわ」

 赤ずきんは振り返りもせずに進みます。

「冷たいねえ。あ、待ちなさい、そっちには毒を持つ花が生い茂っているよ。危ないよ」

「じゃあ着いてこないでくださいね、危ないので」

 赤ずきんはお母さんに言われたことを思い出していました。狼は嘘をつくのです。信じてはいけませんし、相手にしてもいけません。

「やれやれ、じゃあもう着いていかないよ」

 狼は、やっと着いてこなくなったようでした。
 赤ずきんがさらに歩いていくと、目の前に草原が広がっていました。季節は春、草原の草たちはきれいな花を咲かせています。かぐわしい香りが赤ずきんの鼻をくすぐりました。

「これが毒の花?ただのシロツメクサやアザミやカラスノエンドウじゃない。狼って本当に嘘つきだったのね」

 赤ずきんはぷりぷり怒りながら、草原の中ほどまで歩いていきます。そのとき、素晴らしい考えが浮かんできました。

「そうだ! この花で冠を作っていってあげたら、おばあさんも喜んでくれるに違いないわ。きっと病気だってすぐに治るはずよ」

 その背後、遠く離れた茂みの中で狼がほくそ笑みます。

(ほう、おばあさんか)

 もう着いていかないと言ったはずの狼は、実はこっそり着いてきていました。やはり狼は嘘つきなのです。
 久しぶりに若い女の子の肉が食べたかった狼は、ぺろりと舌舐めずりしました。
 人目につくところで襲って食べると、猟師などに見つかる危険があります。「骨の周りの肉が一番旨い」というのが狼の持論でした。できることなら誰の目にも付かない場所で、肉がきれいに骨だけになるまでゆっくりと楽しみたいのです。

 そして赤ずきんの進んでいく方角……その先にある家を、狼は知っていました。老婆ながら驚異的な強さを誇る猟師の家です。用心して近づかないようにしていましたが、なんとその老婆は病気で臥せっているらしいのです! それならば簡単に始末できるではありませんか。

(若い娘の肉も食える、目障りな猟師も始末できる、一石二鳥じゃないか)

 狼はニンマリ笑うと、回り道しておばあさんの家へと急ぎました。

 
        *
 

 赤ずきんは夢中で花を摘み、冠を作っています。そして狼はその間に、おばあさんの家までたどり着いてしまったのです。
 森の奥にある小屋の前で立ち止まり、狼はニヤリと笑います。
 コンコン。

「おばあさん、私よ。赤ずきんよ」

「誰だい」

 狼の精一杯の裏声は、たちまち見破られてしまいました。それはそうでしょう。

「だから、赤ずきん……」

「いーや、違うね」

 おばあさんは鋭い人でした。戸口にいるのが赤ずきんのふりをした何者かであることを瞬時に看破したのです。病気といえども、伊達に森の中で八十余年生き抜いてきたわけではありません。

「赤ずきんはねえ、二人きりのとき私のことをおばあちゃまって呼ぶのよ」

「チッ、あんたらそういう仲かよ!」

 狼は一瞬の躊躇ちゅうちょの末に、扉を蹴りつけました。

(こうなったら仕方ない、強行突破だ)

 扉の蝶番はいとも容易く破壊され、内側へと吹っ飛んで食器棚に激突します。陶器の皿たちが耳障りな音を立てて砕け散り、室内に木屑と埃が舞い散りました。食器棚の横に立てかけてあったマスケット銃を蹴り飛ばし、狼は余裕の表情で振り向きます。

「そこにいたか、小賢しいババアめ」

 ベッドの上で半身を起こし、狼を睨みつけるのは凛とした風貌の老女でした。赤ずきんのおばあさんです。
 齢八十を超えてなお、その瞳に宿る闘志には一片の曇りもありませんでした。事実、絶体絶命とも言えるはずのこの状況において、その口元には笑みさえ浮かんでいるのです!

「私の家に何の用だね、小汚い狼風情が」

 堂々たる口調には、寝込んでいたとは思えないほどの力強さと貫禄が備わっていました。

「貴様の孫娘がここに向かっているらしい。森の入り口では何かと人目につくからな、ここでじっくりいただくとするぜ」

 狼は爪を剥き出しにしました。ギラリと光る爪は、今までにどれほどの生き物の命を奪ってきたのでしょうか。真っ赤な口から吐き出す息が、おばあさんの鼻腔に腐臭を届けました。

「当然、そのためにはあんたは邪魔ってわけさ。さあ、愛用の銃は手が届かない位置にあるぜ。命乞いでもするかい?」

「試してみるかい。命乞いするのはどちらになるか」

 おばあさんは平然と言い放ち、毛布を撥ねのけました。右手に握るは、隠し持っていた護身用の回転式拳銃リボルバー! 小型とはいえ、至近距離での戦闘なら威力は十分です。

「年寄りだからって舐めんじゃないよ!」

 孫娘を守るべく、弾けるような音とともに灼熱の弾丸が吐き出されました。
 狼は咄嗟に身を屈めます。頭上を通り過ぎた弾丸は、狼の頭毛を数本削り取っていきました。回避が数瞬遅れていれば、狼の脳天には綺麗な風穴が空いていたでしょう。

「ババア!」

 さらに撃ち込まれる弾丸を躱し、狼は横に転がります。火薬の爆発によってライフリングに生成される超高圧空間、そこから螺旋の回転を加えて押し出される鉛の弾丸。その速度は音速の比ではありません。第三、第四の弾丸が狼の頬を掠めて飛び去りました。第五の弾丸を躱しきれず、狼の二の腕が弾けて血が飛び散ります。圧倒的です。

「ぐっ!」

 飛び退いた狼は、すんでのところで上体を仰け反らせました。六発目の弾丸が、さっきまで狼の頭があった空間に穴を穿ちました。
 二秒足らずで六発の弾丸を撃ち尽くしたおばあさんは、流れるような動作で再装填。シリンダーを回転させつつ、六つの弾丸を流し込みます。次の瞬間にはシリンダーに新たな弾丸が六発セットされていました。時間にして一秒以下、なんという早業でしょう!

 もちろんその間、狼は手をこまねいて見ていたわけではありません。二足歩行では勝てないと悟った狼は、まず四本足で床を掴みました。極限までたわめた筋肉を一気に解放し、砲弾のごとく跳び上がります。木の床は踏み砕かれて大きく陥没しました。
 本来の四足歩行形態へと戻った狼の危険度は、今までの比ではありません。
 床から天井、天井から壁。四本足の猛獣が、隙あらば喉を噛み千切ろうと牙を剥き出しにしてピンボールのように跳ね回り、おばあさんの死角に潜り込もうとします。狼の脚力の前では、重力などあってないようなものです。家の中の調度品が風圧で次々と砕け散っていきました。

 それに対して滑らかなまでの動きで放たれた最初の弾丸は、狼の尻尾を焦がして背後へと抜け、壊滅した食器棚にとどめの一撃を加えました。食器棚が倒壊してガラスが砕け散る音は、さらなる銃声によってかき消されます。
 二発目、右後脚。三発目、脇腹。いずれも狼の皮膚を抉り取っていきます。決定打にはならないまでも、狼の傷は確実に増えていきました。そして、おばあさんにとってはそれでいいのです。出血によって狼の体力は徐々に奪われていくのですから。弾丸の残量が不明である以上、消耗戦は明らかに狼の形勢不利です。

「ぐうっ……!」

 狼は悔しげに牙を鳴らします。おばあさんの射撃はまさに正確無比。狼の移動を先読みして着実に追い詰めていきます。
 長い猟師生活の中で培われた『先読み』のスキル。長年の経験、優れた観察力と反射神経、すべてが合わさって敵の次なる動きを予測することを可能にしたのです。熟練したおばあさんの先読み……その精度は、もはや未来予知。狼にとっては悪夢でしかありません。移動しようとした場所に、すでに発射された弾丸が待ち構えているのですから。

 四発目、五発目。段々と正確になっていく照準に、狼は近づけないどころか徐々におばあさんとの距離を離されつつありました。これ以上近づくと確実に仕留められてしまう、その間合いを狼は野生の直感で見切っており、それゆえにそこを踏み越えることができないのです。
 灼熱感に次ぐ灼熱感。間を置かず至近距離から襲い来る無慈悲な銃弾の連撃。狼は堪らず大きく飛び退いて距離を置きました。

「……すげえな、あんた」

 おばあさんの早業に、さしもの狼も瞠目どうもくしました。野生の狼の俊敏さを以てしても、この老女が放つ弾丸を躱して近づくことができないのです。

「どうした?もう終わりかい?」

 余裕の笑みを浮かべるおばあさんに、狼はただ戦慄します。

「あたしの弾が切れるのが先か、あんたの牙があたしに届くのが先か。勝負は始まったばかりじゃないか、ほれ、どっからでもかかってきなよ」

 おばあさんは手招き代わりに弾丸を二発、狼の足元にぶち込みました。そして素早く再装填。リボルバーの回転式の弾倉には一度に六発しか入らないのです。六発撃ち尽くしたら再装填の間は無防備になってしまう……それがリボルバーの弱点である、そのはずでした。けれどもおばあさんには、六発撃ち尽くした後の隙というものがまるでないのです。

(クソッタレ……再装填の隙もありゃしねえ、化け物ババアめ)

 狼は薄く笑いました。

(だがな。あんたには、致命的な弱点があるんだぜ)

「ふーむ……あんたと戦ってたらキリがねえ。このままじゃあの娘を喰い逃しちまう。ってことで、悪いが勝負はお預けだ。別の場所で喰わせてもらうぜ。じゃあな」

 狼は近くの窓へ駆け寄り、そのまま外に飛び降りました。

「……待ちな!」

 さしものおばあさんも焦って窓から身を乗り出し、走り去る狼を撃とうとしました。それが失敗でした。
 狼は赤ずきんを狙いに行くと見せかけて、飛び降りたまま窓の下で身を潜めて待っていたのです。
 おばあさんの無防備な喉が狼の視界に入りました。

(かかったな、馬鹿め!)

 罠にかかったことに気付いたおばあさんの銃口が狼の額に向けられると同時に鋭い爪が伸び上がります。狼の右耳が銃弾によって消し飛ばされると同時に、狼の爪がおばあさんの喉を狙い違わず掻き切りました。

「ごぶっ!」

 大量の血塊を吐き出すおばあさん。狼はその頭を思いきり蹴り上げます。窓から身を乗り出していたおばあさんは、のけぞって室内へと倒れ込みました。
 蹴り壊された扉をくぐって、悠々と狼が姿を現します。右耳から垂れてきた血を、ぺろりと舐め取りました。

「おうやおやおや、おばあさん、ひどい怪我だねえ。一体どうしたんだい」

「あ……は」

 仰向けに倒れたおばあさんは掠れた声で何事かつぶやきます。切り裂かれた喉から漏れる弱々しい声。息をするだけでも地獄の痛みを伴うはずなのに、それでも言うのです。
 繰り返し、繰り返し。

「……きん……は」

「え?何だって?聞こえないよ、もっと大きな声で言ってくれなきゃあ」

 狼はわざとらしく笑い、おばあさんの口元に左耳を近づけます。

「赤……ずきん……だけは」

「ああ、そうだな。かわいいかわいい孫娘だもんなあ?だが……」

 狼は、おばあさんの耳元でそっと嘲笑うように囁きました。

「やなこった」

 ひとしきり哄笑すると、おばあさんの心臓に爪を突き立てます。
 おばあさんはわずかに目を見開き、そしてぐったりとなりました。心臓から血が噴き出して、ベッドのシーツに紅い斑点を染め付けました。
 ああ、哀れなおばあさん。孫娘への愛を逆手に取った狼の奸智かんちに殺されてしまったのです。これで狼は何にも邪魔されず、赤ずきんを貪り食うことができるでしょう。

「さて、赤ずきんが来るのを待つかね」
 
 
        *
 
 
 一方、花の冠を作り終わった赤ずきんはスキップしながらおばあさんの家へと向かっていました。

「かわいくできたわ、きっと喜んでくれるはず」

 おばあさんは猟師です。家の中には、いつも独特の匂いが漂っています。
 それは鉄の匂いであり、油の匂いであり、硝煙の匂いであり、獲物の血の匂いでした。よくおばあさんの家に遊びに来ていた赤ずきんは、それらが混ざり合った匂いにすっかり慣れていました。

 しかし今、おばあさんの家の周囲に漂っているのは、そんな赤ずきんも思わず顔をしかめるほどの匂いです。

「うっ」

 赤ずきんは思わず口を押さえます。
 普段嗅ぎ慣れているはずの鉄くさい匂いが、これまでにないほど強いのです。
 そして、扉がありません。蝶番の部分は捻じ切れていて、まるで力任せにこじ開けられたようでした。その奥の食器棚は粉々に破壊されていて、割れた陶器と木の板が積み重なっています。

「おばあちゃま! 何があったの」

 ただならぬ異変を感じ取った赤ずきんは、慌てて家の中に飛び込みました。 
 その瞬間。
 ずしりとした衝撃を胸に受け、赤ずきんの視界が大きく揺れます。

「え?」

 胸から飛び出した黒い何かを視認し、赤ずきんは呻きました。鋭い何かが胸から引き抜かれるのを感じました。衝撃のためか痛みは感じませんでしたが、全身から一気に力が抜けていきます。吹き出す鮮血が白いブラウスを染めていきます。支えを失った身体が横倒しになり、視界が横転したことで初めて赤ずきんは自分が倒れたことを知りました。
 持っていた籠が床に落ち、ぶどう酒の瓶が割れました。赤ずきんの鮮血と混じり合い、赤と紫の斑模様が床に広がっていきます。

(なに……なにが起こったの)

 紅く染まる視界の中、赤ずきんを見下ろして笑う影があります。人ではないシルエット、大きく裂けた口。そう、それは森の入り口で出会った狼でした。

「おばあ……ちゃま……」

「俺はおばあちゃまじゃないぜ。おばあちゃまはそこにいるさ、ほら」

 狼が指差すほうを見れば、血溜まりの中に変わり果てた姿のおばあちゃまが倒れています。その右手には、いつも肌身離さず隠し持っていたリボルバーが握られていました。

「う……あああ……そんな……あああああああッッ!」

 赤ずきんは絶叫しました。身を切るような慟哭どうこくでした。最愛の祖母をこれ以上ないほど酷い形で失ったのです。見開かれた目から涙が幾筋もこぼれ落ち、床の血とぶどう酒と混ざり合いました。
 赤ずきんの胸に空いた穴からは、止まる気配もなく血液が流れ出しています。

(なんてこと……私がうっかり寄り道したばっかりに……)

 赤ずきんはもはや力の入らない腕を、それでも狼に向けて伸ばしました。

「お前のおばあちゃまはな、死ぬ直前まで言ってたぜ。何度も何度も、『赤ずきんだけは、赤ずきんだけは』ってな。泣かせる話じゃないか、ええ?」

 せせら嗤う狼は、容赦なく赤ずきんの腕を踏みつけました。

「あまりに煩かったんでな、こう言ってやったんだ。『やなこった』ってな! その瞬間の悲しげな顔といったらなかったぜ。ははは、お笑いぐさだ!」

 倒れ伏す赤ずきんの頭に口を近づけ、狼はなおも囁きます。

「ま、喰わなかったけどな。あんな歳とったババアの肉なんざ喰えたもんじゃねえ」

 赤ずきんの体が冷えていきます。
 命の源、血液が身体から流れ出していくのが赤ずきんにはわかりました。貫かれた心臓がその動きを止めたことがわかりました。もう、手足を動かすことさえできません。あとは狼に喰われるのを待つだけの死にかけた身体です。
 その中で、頭の中だけが不思議な熱を持っていました。そこだけが、迫り来る死に抗おうとしていました。

「おっと、お前はキッチリ全部喰ってやるから安心しな。久しぶりのご馳走だ」

 狼の言葉が切れ切れになって耳に届きます。

(私……もうじき死ぬんだわ。でも……でも、その前にやるべきことがあるはずよ)

 冷え切った体の奥で、かすかな炎が灯りました。これは何でしょうか。この熱さは、何でしょうか。赤ずきんの手がかすかに動きました。炎は揺らめきながらその大きさを増していきました。

(……許せない。おばあちゃまの仇を討つまで死ねないわ)

 篝火かがりびのような感情が胸の奥で燃え盛り、どろどろと溶けて流れ出しました。それは奔流となって赤ずきんの胸に空いた穴から吹き出し、身体全体を覆っていきます。もう動かないはずの赤ずきんの手がゆっくりと動き、顔の前でゆっくりと十字を切りました。
 ごめんさない、神様。私はこれまで敬虔な信徒でした。神様を信じ、神様を敬って生きてきました。朝晩の祈りを欠かしたことはありませんでした。けれども今、私はあなたの教えに逆らおうとしています。
 床に落ちている籠の中のパンとぶどう酒がカタカタと震えだしました。

(……絶対に許さないわ)

 祖母を殺し、己を殺したこの狼を許してはいけません。この狼が存在する限り、いや、この世に狼が存在する限り、人々に安寧が訪れることはないのです。
 赤ずきんの中で燃え上がる感情、それは怒りでした。
 その怒りは、赤ずきんに神との決別を促しました。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す? そんなのは間違っています。右の頬を打たれたら相手の両頬を打つのです。祖母が討たれたならば、祖母の仇を討つのです。もう二度と、新たに右の頬を打たれる者が出ないようにするのです。

 私は狼を狩る者。狼という悪しき存在を絶滅させるため、地獄から舞い戻る者。神と決別し、神に代わって罰を下す者。AMEN。

(……許さない!)

 突如、赤ずきんの身体が炎上しました。

「何だあ……っ?」

 赤ずきんの喉笛に喰らいつかんとしていた狼は、その熱に鼻先を焼かれて飛び退ります。
 かりっ。倒れ伏す赤ずきんの爪が、床を引っ掻きました。手足が動きます。首が動きます。糸の切れた操り人形に新しい糸が張られゆくように、赤ずきんはその身体を蠕動ぜんどうさせます。

「よくもおばあちゃまを殺したな」

 その喉から、掠れた不気味な声が響きました。
 床のパンとぶどう酒が炎上し、音を立てて舞い上がります。赤ずきんの胸に空いた穴に、舞い上がったパンが飛び込みました。炎に包まれたパンは心臓の形をしていました。床に広がったぶどう酒と血の混合物カクテルがじわじわとうごめき、赤ずきんの胸の穴から身体の中へと注ぎ込まれていきました。赤黒いその液体が、傷ついた身体の中を循環し始めます。
 いつしか穴は塞がっていました。

 ――復活レスレクティオ

 パンはその肉体、ぶどう酒はその血。神と決別した赤ずきんへ、神から贈られた紅き餞別せんべつ。赤ずきんの命はここに蘇ったのです。

「……っ!」

 死に瀕していたはずの赤ずきんが、燃え盛る炎に包まれてゆっくりと身体を起こします。狼を睨みつけるその瞳に浮かぶのは、紛うことなき殺意と復讐心です。

「よくも」

 さっきまで花を摘んで冠を作っていた少女とは、もはや異なる存在でした。

――またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。(ヨハネの黙示録二十章一~三節)

 それはまるで黙示録で示された光景のように。千年ののちに封印を解かれた怪物が地の底から這い上がってくるように、少女は立ち上がります。

「よくも私を殺したな」

 室内は異様な熱気に包まれていました。狼の全身から汗が滴ります。それは炎の熱気による発汗と、目の前の少女から発せられる威圧感による冷や汗が混じったものでした。
 炎が赤ずきんの全身から噴き出していました。それは渦巻き、ねじれ、飛び散りながら赤ずきんの周囲を踊り狂います。許せないという強く純粋な怒りが失われた命に代わって少女の身体を満たし、溢れ出しているのです。
 今や、可愛らしい少女であった赤ずきんはどこにもいません。

「許さない! 許さない! 許さない!」

 そこにいるのは、その身に炎をまといて狼を狩る者でした。
 おばあさんに作ってもらった赤いずきんは、炎と同化して赤ずきんの頭部を覆う兜と化していました。かわいらしい真っ白なブラウスは、鮮血と獄炎で染め抜かれた深紅の鎧となっていました。赤ずきんは狼を殺すための戦士として生まれ変わったのです。
 熱気で室内に陽炎が発生し、狼の視界がぐらりと歪みました。

「何だ……何だお前は!」

 耐えられないほどの熱気に、狼は堪らず窓から屋外へと脱出します。一刻も早くあの不気味な少女から離れなければ、と本能が告げていました。狼は全速力で駆け出します。

「くそっ、一体どうなってやがる……」

「知りたいか?」

 赤ずきんです。全速力で走る狼の眼前に現れた赤ずきんが、狼の首を掴んでそのまま釣り上げます。全速力の狼をやすやすと追い越し、数倍の体重差を誇る狼を片手で軽々と持ち上げているのです。一体どうなっているのでしょう。

「うぐっ、うっ」

 狼は悲鳴を上げました。

「UUUGYAAAAAOOOOAAA!」

 掴まれている首がじゅうじゅうと音を立てて焼け焦げています。赤ずきんの小さな掌それ自体が溶岩のような高熱を発し、狼を熱で責め苛んでいるのです。
 狼は悟りました。勝ち目はありません。眼前の炎を纏った少女は、小汚い自分など一撃で炭にしてしまうでしょう。

 狼は恐怖に駆られて前脚を闇雲に振り回します。ぎらりと光る鋭い爪は、当たるだけで赤ずきんの柔らかい肉をごっそり奪い取っていくでしょう。しかし、爪が再度赤ずきんの喉を抉ろうとしたとき、それは脚の中ほどからふっと消失しました。
 いいえ、正確には「焼失」したのです。荒れ狂う炎が、赤ずきんへの攻撃をことごとく燃やし尽くす鎧となっていました。もはや邪悪な敵は、赤ずきんに触れることさえも許されないのです。
 脚を失った狼の喉から声にならない苦鳴が漏れました。

「愛だ」

 赤ずきんの指がめきめきと音を立てて狼の喉に食い込んでいきます。

「ア゛ッア゛ッア゛ッ」

「母の愛が私を育んだ。神の愛が私の命を蘇らせた。祖母の愛が私を覆った。この身体、この命、すべてが愛の産物だ。屑め、愛を知らぬ貴様のその汚らしい爪で触れられるものなら触れてみるがいい!」

 赤ずきんは咆吼し、狼を軽々と投擲とうてきしました。
 いかなる威力か、狼の身体は樹木を数本薙ぎ倒してさらに森の奥へ、そして大岩に半ば食い込むようにしてやっと止まりました。

「がっ……がはっ……」

 全身の骨が砕け、血まみれの狼にゆっくりと歩み寄る赤ずきん。炎を従えるその姿は、まさに地獄からの使者です。

「今のが、貴様に殺された祖母の分」

 赤ずきんはいつの間にか、おばあさんのリボルバーを手にしていました。
 身体の前で構えます。銃を撃ったことはありませんが、どうすべきかは不思議と理解していました。指が弾倉を慈しむように撫で、回転させます。

「そして、これが貴様に殺された私自身の分だ。最後に言い残すことはあるか」

 赤ずきんが構えたリボルバーの照準はぴたりと狼の心臓に向けられており……狼は己の最期を悟りました。
 そして、嗤います。

「狼ってのはなあ……群れで行動するもんだ。はは……ははは……喰われちまえよ。一足先に地獄で待ってるからな」

「そうか」

 赤ずきんは、躊躇なく引鉄を引きました。
 飛び出した炎の弾丸が狼の胸を穿うがち、黒い穴を開けました。着弾の衝撃で狼の身体が浮き上がり、背後の岩に狼の内臓が飛び散って赤い幾何学模様を描きます。狼の目がぐるりと裏返り、口から舌をはみ出させて息絶えました。

塵は塵へダスト・トゥ・ダスト。さらばだ、狼」

 狼の身体が内部から燃え上がりました。
 赤ずきんの持ったリボルバーに、弾は込められていませんでした。赤ずきんの纏う炎が、弾丸の形をとって撃ち出されたのです。

「何匹来ようと関係ない。すべて駆逐するのみだ……狼という存在を!」

 そして振り向きざま、二発の弾丸を放ちます。気配を消して赤ずきんの背後に忍び寄っていた二匹の狼が同時に眉間を貫かれ、地面に倒れ伏して燃え上がりました。そのまま流れるように三発目、弾丸は木陰から赤ずきんの隙を狙っていた狼の鼻先を消し飛ばします。
 鼻を失った狼の頭部がぼうっと炎上し、狼は悲鳴を上げます。

「ああ、ああああ」

 水を求めて逃げ出した狼の背中に四発目が命中し、狼はもんどりうって息絶えました。
 狼たちの骸は激しく燃え続け、やがて灰も残さずに燃え尽きました。後には、地面に少しの焦げ跡が残っているばかりです。
 それを見届けた赤ずきんは踵を返し、おばあさんの家まで戻りました。

 血溜まりの中に落ちていた花の冠を拾い上げます。赤ずきんの手に触れた瞬間、それは赤々と燃え上がりました。
 炎に包まれ茶色く萎れていく花を見て、赤ずきんは悟りました。もはやこの花には触れられぬ自分がいることを。もう、自分が人間ではなくなってしまったことを。
 その目に涙が一滴盛り上がりました。しかし、溢れ落ちる前に炎の舌がそれを舐めとって消し飛ばしてしまいます。赤ずきんは立ったまま涙を流し続けましたが、一滴たりとも頬を伝って流れ落ちることはないのです。
 もはや彼女には、泣くことさえも許されないのでした。

「……さようなら、おばあさん。どうぞ安らかに」

 赤ずきんは、血に濡れたリボルバーと炎を纏う花の冠をおばあさんの胸元に置きました。炎はやがて冠を燃やし尽くし、灰にしてくれるでしょう。おばあさんと共に。
 赤ずきんはおばあさんの遺品であるマスケット銃に手を伸ばします。身長ほどもある銃を赤ずきんは難なく拾い上げ、肩に担ぎました。

「これ、借りていきます」

 過去との決別。そして神との決別。
 狼を狩る魔弾の射手デア・フライシュッツとして生まれ変わった赤ずきんは、静かに家を踏みしめながら家を出ました。その背後で家が燃え上がります。煌々こうこうと輝く橙が森の緑と混じり合い、世界を彩っていきます。

 木材の爆ぜる音が響き渡る中、赤ずきんはおばあさんの銃を構えました。
 いつの間にか、赤ずきんは狼たちに囲まれていたのです。次々と森の奥から現れる狼たち。仲間を殺され、焼かれた狼の群れです。どの狼も牙を剥き、爪を光らせ、憎しみに満ちた目で赤ずきんを睨みつけています。
 炎を背に、赤ずきんは凄絶せいぜつな微笑を浮かべました。

「さあ、燃えたい奴からかかってこい」
 
 
        *
 
 
 それ以来、その国の人々が狼に襲われることはなくなったといいます。
 赤ずきんの行方は、誰も知りません。

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