鮒のぼり

著:ますけったー

*本作は架空の県を舞台にした創作民話を基にした一次創作です

 1、鮒と鯉と龍

 昔、ある川に一匹の鮒(ふな)がいた。その鮒は同じ川にいる鯉に憧れ、仕草や泳ぎ方を真似したが、到底及ばなかった。一方、鯉は龍になりたかった。だから一生懸命滝を昇ろうとしたがうまくいかない。そんな時、気紛れに天から龍が降りてきた。しかし、龍は鯉ではなく、鮒を見初めた。鮒は戸惑い、鯉の努力が虚しくなるのを恐れたが、龍の気持ちも断り切られなかった。思い詰めた鮒は、川を飛び出して陸地に上がり死のうとした。その時、龍は鮒を掴むと一緒に天に昇った。それを見た鯉は龍を追って滝を昇り、志通りに龍になったという。なお、この昔話を伝える地域では毎年三月の末頃に鮒のぼりを上げることがある。就職や進学などの節目を迎える子供がいる家庭で鮒にあやかろうとするものらしいが、同じ家庭が五月になれば鯉のぼりを上げるのも珍しくない。
 ……2018年4月5日、杉川新聞文化欄掲載。

 2、風習

 神奈川と静岡に挟まれた杉川県。県そのものが典型的な地方都市の集合体だ。そんな地域では自動車が生活手段である。上京して十年近くが過ぎ、いっぱしの都会人になった相原も、久しぶりに故郷に帰るとあっては自らハンドルを握った。程々の格式で知られる普通車を、高速道路に乗せて二時間も走らせると、懐かしい風景が両手を広げていた。
 高速道路を降りてから一般国道、県道、市道と、さらに一時間ほどかけて進む内、ビルや商店は目に見えて減っていった。梅が散って桜がほころびかけた時分であり、観光客も滅多にこない。
 そのさなか、相原は農協が運営する小さなスーパーの駐車場に車を止めた。休憩というよりは、昔の雰囲気を確かめたくなった意味合いの方が強い。古びたガラス戸に近づくと、いかにも半周遅れのようなデザインのゆるキャラを描いたポスターが貼ってあるのに気づいた。鮒を擬人化したもので、『ふーなん君』だそうだ。銀色の体色が毒々しい。ご丁寧にも説明書きが添えてあり、鮒のぼり強化週間特別セール中等とある。それでようやく、古い習慣を思い出した。もっとも、だからなんだというのでもない。ガラス戸を手で開け、入りしなに出入口の脇に積まれた籠を手に取っておいた。
 鮒のぼりはさておき、店内は思い出通りの内容だった。山あいなのに海の鮮魚を置くのは地元にとってそれが珍しいと意識されていた名残りで、大抵の客は揚げ物や握り飯を買っていく。食品以外だと、殺虫剤や子供が使う虫取り網が揃えてあった。
「相原……さん?」
 時ならぬ若い女性の声に、相原は驚きながら振り返った。まだ大学を卒業するかしないかくらいの、モデル並みに容姿の整った女性が微笑みかけていた。
「そらちゃん」
 思わず相原は下の名前を呼んだ。稲山 そらは、相原と同郷である。歳は三つ四つ彼女の方が下だ。小学校時代、児童数が減り続けて複式学級が導入された為、同じ教室で過ごした。さすがに中学に入ったタイミングはばらばらだし、相原は街中の高校に進学したのですれ違いになったきりだった。それこそ子供の時分は良く遊んだが、とりたてて今は特別な感情はない。
「久しぶりですね。お彼岸ですか?」
 少し緊張した、ぎこちない聞き方だった。
「いや、商売の合間に一休みしたくなっただけだよ」
 自慢げにならないよう気をつけながら、相原は応じた。
「商売?」
「ああ。サラリーマンは辞めた」
 そう言いながら、相原はペットボトルの茶と豚バラ弁当を籠に入れた。
「えっ……そうなんですか」
「そっちはどうだい」
「あ、あたしは……温泉宿で働いてます」
 この辺りで唯一の温泉宿、『かわせみ荘』。バブル時代に出来た第三セクターながら、数十年に渡り中々に繁盛している。相原は利用したことがなかった。
「あの、商売って、どんな……」
「個人で食料品を扱ってるよ」
 籠に入れた豚バラ肉。アメリカ産と表示してある。かつては杉川県にも幾つか養豚場があったが、今は絶滅している。
「偉くなったんですね」
 皮肉でない代わりに賞賛とも取られない、嫉妬と憧憬の中間を感じさせる口調だった。
「いや、別に。じゃあ、これで」
 相原は軽く会釈して、勘定を済ませた。稲山が嫌いなのではなく、一人で簡素な骨休めを味わいたい。ただそれだけだ。
 再び車を出した相原は、地元の役場の前を横切り、寂れた林道に入った。小学生の頃、たまに同級生と遊んだ。花粉症にかからずに済んでいるのは大変な幸運だと自分でも思う。林道の奥は行き止まりで、本来は林業に従事する人々がトラックを止める場所になっている。相原が中学を卒業する頃にはそれも廃れて、放置され朽ちつつある一台のトラックだけが往時を偲ばせた。日頃、成金連中のカクテルパーティーに付き合っている立場としては、たまにはこうした息抜きが欲しい。
 車を止めて少し窓を開けてからエンジンを切ると、相原は豚バラ弁当を出した。包装を破って割り箸を手にした時、杉の植林から突然一人の女性が現れた。こちらに手を振っている。弁当を食べる機会が先伸ばしになってしまった。
 女性は稲山よりもっと若く、二十歳かそこらか。野暮ったい作業ズボンに、どこぞの安売りブランドで買ったのがすぐ分かる長袖シャツを着ている。肩には紺色のリュックを背負っていた。極めつけは赤いつば広帽だった。それらに覆われた体格はふくよかといえない程度にぽっちゃりで、染めてない黒髪が耳を覆っている。
 遂に彼女は運転席の脇に至った。相原は渋々顔を彼女に向けた。
「今日は。あのう、不躾ですけど道に迷っちゃって。役場へはどう行ったらいいですか?」
 意外にも、と言っては失礼だが、可愛らしい声だ。少ししわがれてはいるが。
「これ一本道だから歩くと行けますよ」 
 相原は事実を述べた。
「ありがとうございます。……自動販売機とかって、途中でありますか?」
「さあ」
 我ながら素っ気ない。子供ならともかく、大人なら自力でどうにかして欲しいし、そういう時は性別に差をつけない主義である。
「お邪魔しました。どうも」
 女性は丁寧に頭を下げて道を歩き始めた。数メートルで膝をつき、両手で地面を抑え座り込んだ。さすがに放っておけず、車から出て彼女の傍らにしゃがんだ。
「大丈夫ですか?」
「喉もお腹も限界です……」
 行き倒れとは面倒極まる。さりとて見殺しにも出来ない。スマホは電波が届かないし、相原がどうにかする他なかった。
「私の弁当で良ければどうぞ」
「え? いいんですか?」
 返事の代わりに弁当と茶を持ってくると、女性はまず相原に頭を下げ、ついで弁当と茶に頭を下げてからペットボトルを手にした。
「いきなり沢山飲まない方がいいですよ」
「はい」
 素直にうなずき飲み食いを始めた彼女の隣で、相原は失礼でないくらいに観察した。予想外に丁寧な食べ方だった。相原は決して無作法な人間ではないし、作法に病的に拘るつもりもない。しかし、優雅といって良い箸運びには感嘆した。
「ご馳走様でした」
「いや、どうも」
「失礼ですけど、お金は幾らですか?」
「ああ、構いませんよ」
 商売と人助けは区別するのが相原の流儀である。
「嫌です。私、ちゃんとお金持っていますし」
「じゃあ、そのゴミを処理しておいて下さい」
 相手が沈黙したので、相原は腰を浮かせかけた。
「それじゃ足りません。あっ、そうだ! どうしてもお金が嫌なら物々交換しませんか?」
「物々交換?」
 なんともユニークな提案に、相原は思わず苦笑した。
「ここ、私の親戚の山なんです。だから山菜をとっても良くって……ちょっと待ってて下さいね」
 リュックを肩から外してごそごそしたあと、ビニール袋が出てきた。さっき相原が弁当を買ったスーパーのロゴが印刷されている。
「ほらっ。イタドリですよ」
 赤色混じりの濃い緑色をした細長い茎が数十本、姿を見せた。相原も、子供の頃生でかじったことがある。渋くて酸っぱかったが腹の足しにはなった。商売で扱ったことはない。
「ま、まあ、頂いておきましょう」
 彼女の自尊心を満たす為に、相原は受け取った。
「ありがとうございます! じゃあ、私はこれで」
「待った」
「え?」
「どのみち私はもう一回弁当を買わねばならないし、この道を戻らねばならない。だから、あなたも良ければ乗っていくといい」
 放っておいても問題ないはずだが、余り変わった人間を目にしたので座興めいた好奇心が湧いてきた。
「本当ですか?」
「まあ、どうぞ」
「わーい」
 初対面の相原の前ではしゃぎながら、彼女は空の弁当箱とペットボトルを自分のリュックにしまい助手席に乗った。相原はイタドリの入った袋を手に下げて、一度それを後部座席に置いてから運転席に入った。こうして、時ならぬドライブが始まった。
「そういえば、私は相原と申します」
 山道を下りながら、相原から自己紹介した。
「名前まだでしたね。すみません。内海です」
「この山が親戚どうこうという話ですが、地元の方ですか?」
「はい。相原さんは? 元はここなんですか?」
「実はそうです。……まあ、ちょっとした休暇旅行ですよ」
「お陰様で、命の恩人になって下さいましたね」
 なんとも形容し難い、コメントに困る感謝のされ方だった。とはいえ悪い気はしない。
「私、かわせみ荘っていう温泉宿でバイトしてるんです。今日と明日は非番ですけど。行ったことありますか?」
「いえ、でも評判はいいですね」
 内海は稲山と顔見知りかそれ以上の可能性があった。実のところ、狭い共同体は全員が互いに家族のようなものではある。必ずしも良いことずくめではないにしても。
「ありがとうございます! でも最近、売上が落ちてきちゃったって皆が言ってて」
 そう言いつつ、内海からは相原の仕事を尋ねてこなかった。それからは他愛もない世間話になった。
「もうすぐ役場前ですよ」
「本当にお世話になりました。ありがとうございます」
 道路脇に車を止めると、内海はすぐに降りた。ドアを締めたあと、手を振っている。相原も二、三回手を振って車を出した。
 さて、車ならあとほんの数分で行けるが、スーパーに戻ってもう一回弁当を買うのはなにやら癪だった。さりとて空腹は空腹だ。かわせみ荘は食事だけの客も歓迎している。それ自体は前から知っていた。数秒思案してから、相原は車をそちらへ回した。

 3、野趣

 かわせみ荘は、地元の役場前からなら車で三十分ほどかかった。その間はひたすら山道で、ところどころに溶け残りの雪がちらつくのが冬の名残りを示していた。要所要所に、宿にちなんだかわせみの看板があり、誰にでも分かるようになっている。
 道の締めくくりは赤い鉄橋だった。川の上にかかっていて、かなり頑丈そうだ。清らかな水面は、眼下二十メートルといったところか。橋のたもとから見た建物は、そうした気配に溶け込むよう、落ち着いた二階建ての木造建築だった。ネットでホームページを読んだ時、地元の間伐材を一部に用いたとあったのを思い出した。建物を透かしたはるか向こうの山奥には、滝が流れている。見覚えはなかった。地元の人間といえども全てを把握しているのではないし、遊びの場が家の外なのは中学一年くらいまでだった。同級生も大半がそうだが、中学も二年くらいになると部活かテレビゲームかで放課後が過ぎるようになった。
 橋を渡り、駐車場に車を入れた相原は正面玄関の自動ドアをくぐった。さすがにふーなん君のポスターまではないが、玄関を入ってすぐ両脇の控えめな場所にミニチュアの鮒のぼりが飾ってあった。鯉ではなく鮒が一匹だけ飾ってあるが、軸は絡み合う二頭の龍を模してある。
 相原自身は、鮒のぼりを立ててもらった記憶を持たない。鯉のぼりなら小さい頃にある。この地域の皆が皆鮒のぼりを上げるのではないからおかしくはないが、良くも悪くも自分はよその人間になったのだなとは自覚した。それはさておき腹が減った。
 レストランは、何故か昭和風の原色に近いセンスでメニューをかたどった模型がガラス張りのケースに展示されていた。なるほど典型的な和食店だ。田舎そば、田舎うどん、ヤマメ定食、山菜定食、牡丹鍋定食。そして、鮒こく定食。鮒こくとは、鯉こくと同じ要領で、要するに味噌煮だ。それやこれやを十数秒眺めてから相原は店に入った。ほどほどに客が入っている。 稲山の姿はない。所属が事務かなにかなのだろう。
「いらっしゃいませ」
 着物姿の店員が丁寧に挨拶して、テーブルに案内してくれた。水とおしぼりを受け取り、メニューを広げるまでもなく鮒こく定食を注文した。ちなみに税込九百円。店員は注文を伝票にハンディポスに入力し、復唱してから厨房に入った。
 料理を待つ間に店内を観察すると、レプリカながら明治の巨匠の絵が数点壁にかけてあった。景色の良い窓際の席は満員だが、今いる場所からでも充分に眺められる。橋のたもとで目にした滝が、より身近に感じられた。BGMの類はない。
「お待たせ致しました。鮒こく定食でございます」
 さっきと同じ店員が、膳を運んできた。軽く礼を述べて箸を手にする。内容は、白米、味噌煮の鮒、山菜小鉢、漬物小鉢、湯飲みの茶となっている。鮒は大ぶりの汁椀に入っており、各種の野菜と一緒だった。いざ食べると、白昼なのに酒が欲しくなる旨さだった。昼に食べるにはまあまあ値が張るものの、控え目に言って悪くない。ただ、鯉科の魚は大抵そうだが、なまじ汚れの酷い水質にも適応できるため『汚い魚』という印象が極端に強い。清浄な水質で適切に養殖すれば、泥臭さも抑えられるだろう。繁殖力も高いし雑食なので餌も安価で済む。取り分け日本の消費者はメディアの印象に影響を受け易く、それが今後の発展に影響していくだろう。そんな考えを思い浮かべる内に全ての皿が空になった。
 すっかりくつろいでいる内に、テーブルの端にあるアンケート用紙を目にした。普段はその手の品に大して関心を持たないのだが、ふとした気紛れで手に取った。接客も内装も味も申し分ないので、後輩を励ますつもりで好意的な内容を記した。回答するからには本名や住所云々も明かした。
 勘定を支払い、アンケートを回収箱に入れて相原は店を出た。そのまま東京に帰っても良かったろう。休日を退屈せずに過ごすなら、むしろその方が適切だ。しかし、奇妙な出会いが二件も続いたので、なにかしらこの土地に縁めいたものを感じた。温泉を利用するつもりはないが、滝くらいは確かめておきたい。ちょうど、駐車場の脇に地元一帯の簡単な案内地図が看板になって立ててある。『鯉上げの滝』とやらいうらしい。鮒のぼりにもかかわる、鯉が昇り切って龍になったとされる滝だ。現地まで多少時間はかかるが単純な道のりと分かり、早速車を出した。運転する内に、中学時代の思い出が蘇った。十三、四年ほど前になろうか。古文の授業で竹取物語が出てきて、車持皇子(くらもちのみこ)なる人物を知った。かぐや姫への求婚の為に出鱈目な航海の顛末をでっち上げ、職人をただ働きさせてかぐや姫に献上する蓬莱の玉の枝を偽造した挙句、結局失敗する。人格としては充分軽蔑に値した。同級生の大半がそう感じて口にした。相原も同じだったが、こうも思った。もし車持皇子が本当に蓬莱を目指したなら、たどり着けたかも知れない。それを荒唐無稽というなら、竹からかぐや姫が現れること自体が既に荒唐無稽だろう。教室でそう打ち明けた相原に積極的に賛同した人間はいなかった。精々が、そうかもしれないな、くらいだった。程なくして、相原達の両親が当たり前に感じていた大企業での終身雇用や年功序列が崩壊し、過労死や新型うつがやたらに取り沙汰されるようになった。そんな回想も交えた小一時間を経て、鯉上げの滝の近くにある駐車場に至った。自分だけかと思ったら意外にも軽四が一台先客でいる。
 手すりつきの苔むした急な階段を登り、ようやく滝の前に立つことができた。落差は二十メートルほどか。雪解け水を交え、水量は申し分なく豊かだ。そして著しく寒い。氷水寸前の水がほとばしっているのだから当たり前ではある。滝壺は底まで透ける清らかさで、水辺にふきのとうが二、三咲いていた。こちらに背を向けて立っている稲山の姿もあった。
「稲山さん」
 少し間を置いて呼びかけると、すぐに振り向いた。
「相原さん……。どうしてここに?」
「かわせみ荘で昼飯にしたあと、駐車場の看板を見たんだ」
 当然、稲山にはその配置が明確に浮かんだに違いない。
「そうだったんですか。綺麗な滝でしょう?」
「ああ」
「相原さんは、観光資源で置いておきたいですか?」
 突然堅苦しい質問を寄せられ、さすがに驚いた。
「滝を?」
「そうです」
「博物館を作る計画でもあるのか?」
 バブル時代にそうした頓珍漢が日本全国で行われ、ほとんどが失敗していた。
「違います。ここから水を引いて、養殖場を作りたいんです」
「作りたい?」
 素朴に解釈する限り、稲山にその意思と力のどちらかがあることになる。
「はい。私はかわせみ荘の新しい目玉商品として鮒こくをもっと押し出したいです。今は琵琶湖の業者から鮒を仕入れていますが、地元で養殖すればブランド化も考えられます」
 渓谷の滝から水を引けば、鮒に対する悪印象もなくなるだろう。その意味では確かに筋は通る。その代わり、滝は本来の姿を失う。どう工事するのかより、工事すること自体が問題だろう。
「仮に養殖場を作るとして、工期や予算は試算したのか?」
「はい。五年ほどかかりますが、融資が焦げつくようなことはありません」
「補助金を申請するのか?」
「いえ。あくまでかわせみ荘独自の計画です。もっとも、どのみち地元の役場には許可を取らねばなりません」
 中々に壮大な話だった。それだけに、恐らくはまだ相原以外の誰にも打ち明けていないことも予想できた。
「私なら、養殖場には賛成だな。もっとも、商標登録なり、調理法の特許なり、ブランドを守る手立てがあればだが」
 一時的なブームのあと、にわか同業者が殺到して共倒れになるのは珍しくもなんともない。
「ありがとうございます。そう仰って下さると背中を押された気持ちになります。じゃあ、失礼します」
 エネルギーの塊のような笑顔を弾けさせ、稲山は丁寧に一礼して回れ右した。そのまますたすた階段を降りて行き、消えた。
 相原は、そのまま滝を眺め続けた。民話の通りに、鯉は本当にこの滝を昇り切ったのだろうか。だとしたらどんな気持ちだったろう。唐突に、イタドリを山盛り抱えた稲山を思い出し、相原は一人で笑ってしまった。
 しばらく滝を鑑賞してから、相原は帰宅した。二三区からは離れた街にあるマンションで、それほど広くはない。靴を脱いですぐといった感覚で、イタドリの下ごしらえを始めた。まず水で洗ってから皮を剥く。言葉にすれば一行である。新聞紙を食卓のテーブルに広げてからボールを二つ構え、一方にイタドリを、もう一方に剥いた皮を入れるのだが、数分もすれば無心になれる。多少剥ぎ残しもあるが、自分で食べることもあり気にしない。二時間ほどで全て終わった。次に、アクを抜かねばならない。その前に、剥いた皮を捨ててまな板を出した。ボウルから皮を剥ぎ終えたイタドリを出して適当に切り揃え、再びボウルに入れてから塩をまぶす。そうしてシャワーを浴びた。どうせ数時間かかるので、空いた時間を別なことに使えばいい。といっても、ソファーに寝そべってスマホをつつくくらいしかやることはなかった。それで満足でもあった。宵の口くらいには、ボウルの中にイタドリから染みでた水が溜まった。それを捨ててもう一回塩をまぶした。更に数時間待たねばならない。簡単な夕食を挟んで買い溜めてあった本を読んだ。夜更けになり、やっと二回目のアク抜きが終わった。このままでは塩辛くて食べられないので、塩抜きをしなければならない。一度に全部食べられないので、八割ほどはビン詰めにして冷蔵庫に入れた。残りは改めて水を入れ直し、翌朝まで放っておく。手間と暇の均衡を好きに決められるのが……結果に責任を持つことも含めて……この手の調理の楽しさだった。
 翌朝。ボウルの水を捨て、イタドリを一本手にしてかじってみた。塩気は程よく減っている。極端な酸味もない。朝食かたがた手っ取り早く油で炒めて食べた。歯触りもよく油の風味にも合い、すぐに皿が空になった。要領は知っていたが、実際に食べるのは初めてだ。酒の肴にもなるだろう。それで、今晩食べる分を塩抜きにかけておいてから仕事に出た。

4、止揚(しよう)

 その日の業務を終え、帰宅して入浴を済ませるなりイタドリから塩抜き用の水を捨てた。夕食は既に終わらせてある。今回は晩酌を楽しみたい。
 少しネットを閲覧すれば、様々なレシピがあった。夕べはただ油で炒めたまでだったが、今回は近所のスーパーで豚バラ肉を買ってきた。そういえば、内海には豚バラ弁当をふるまった。意識したのではないものの、調理しながら苦笑した。
 イタドリの豚バラ炒め。要するに、夕べの調理に豚バラが加わったまでだ。手間もさほど変わらない。すぐにできて手軽に美味満腹くらいの感覚だった。しかし、実際に食べると素材が一つ加わっただけで遥かに印象が変わった。相原は気取った美食家ではない。だから、いちいち凝った表現で気に入った料理を現さない。ただ、調味料に隠し味のつもりで焼肉のタレを少し使った見識はささやかながら自惚れた。そんな幸せを缶ビールで胃に流し込んだ。
 と、そこでスマホが振動した。かわせみ荘からメールが届いている。中身を確かめると、昨日、アンケートに回答したことへの謝礼だった。型通りの内容で、それ自体は特に注意を引かない。さりながら、稲山と滝で交わした会話もあり、余興かたがたネットでかわせみ荘の評判を調べた。宿泊客や日帰り温泉の利用者のコメントを読んでいくと、大半は好意的で当たり障りのない話をしていた。二缶目のビールがもうすぐ空になる辺りには、意見に隠れた問題点をまとめていた。どの項目についても同じようなことしか書いていない。つまり、本音がない。誤解され易いが、かわせみ荘に客が不満を抱くような、いわば積極的な問題があるというのではない。そうではなく、将来の成長に資する情報がない。だから始末が悪い。稲山はさすがにこの状況を見抜き、先行投資で養殖場を起爆剤にしようと考えているが、この状況では上層部を説得しにくいだろう。
 かわせみ荘に返信はしなかった。あくまでも一人の利用客として感じた通りに述べたまでだし、かわせみ荘と商談するつもりもない。それより、内海には興味があった。下世話な意味でなく人格的な実力での内容だ。深く切り込まない限り、稲山が立派な社会人なのに対し内海は良く気のつくアルバイトといった評価で落ち着くだろう。厳密には、内海は自然と相手の気持ちをほぐす力があった。仮に稲山に同じ状況でイタドリを勧められたら、受け取りはするが実家にでも押しつけていただろう。稲山が嫌いなのではなくイタドリの処理が面倒だからだ。
 そこまで考えてから、新しい商売を思いついた。いや、商売というほど大袈裟でもない。遊びに近い。ただし、真剣勝負の遊びだ。ただ、今夜はアルコールも入ったし明日にしよう。そう思いながら三本目のビールを出した。
 翌日。差し迫った商談を昼下がりには終わらせ、再び故郷に車を走らせた。途中、コンビニで箱入りの一升瓶を二本買っておく。今回は漠然と骨休めをするのではない。実家に向かう。目的は違うにせよ、それこそ何年ぶりかの帰省になった。相原は一人っ子で、父は公務員、母は郵便局員である。息子がそれなりの大学や企業に入った時は人並みに喜んだ。もっとも、退職して独立しても特に反対はしなかった。相原自身も家族にはさばさばと接している。ともかく、実際に敷居をまたいだのは日没を過ぎてからだった。どのみちそうしないと二人とも帰ってこない。事前に連絡は入れてあるので混乱はしなかった。
 久しぶりに両親と会い、型通りの挨拶や会話を踏まえた後、家族水入らずの団欒になった。食卓にイタドリが出てきたのはご愛敬として、一升瓶を母に贈り……父より母の方が良く飲むので……用件を述べた。イタドリを売買したいので地主を紹介して欲しい。両親は、それなら近所の内海さんに頼もうと請け合った。内海氏はもう六十代にさしかかっているにもかかわらず現役の土木業者なのだそうだ。内海と聞いて先日の出会いを思い出しはしたものの、話がややこしくなるので黙っておく。夕食が終わってすぐ、母が電話を入れてくれた。翌日の昼に挨拶しにいくことで簡単に約束ができた。
 約束の日時を迎えて訪問すると、そこはいかにも旧家然とした和風建築だった。携えてきた一升瓶が恥ずかしくなりそうな気もしたが、安物というわけではない。ともかく正門のインターホンを鳴らした。
「はい」
 と、年季のいった女性の声がする。
「失礼します。夕べ母からお話があったかと存じますが、相原です」
「お待ちしていました。どうぞ」
「ありがとうございます」
 インターホンから離れて正門を開けると、落ち着いた中庭があった。 灰白石の玉砂利が敷き詰められ、丁寧に手入れされた植え込みと石灯籠が品良く配置されている。青みがかった踏み石には苔がついていた。
「ごめんください」
 中庭を横切り、玄関の戸を開けて一声かけると、すぐに返事がしてゆったりした足音が聞こえた。
「いらっしゃい。相原さんの息子さんですね?」
 と、現れたのは普段着姿の女性だった。相当な歳のようだが、髪も肌も丁寧に手入れしてあった。察するに内海夫人だろう。
「はい。突然のお話ですみません」
「いえいえ。さ、どうぞ」
「お邪魔します」
 靴を脱いで上がると、女性は居間に案内してくれた。壁も廊下も板張りで、足音が心地よい。
「あなた、相原さんですよ」
 女性が襖越しに声をかけた。
「ああ」
 低くはあるが穏やかそうな返事を受けて、内海夫人は襖を開けた。畳敷きの和室に、床の間を背にして内海が座っていた。カーキ色のズボンに薄青色のシャツ、いずれも綿製とすぐわかる。昔の人らしく、小柄でのっぺりした顔つきだった。しかし、人好きのする笑顔を浮かべている。仕事柄ごつごつした体格をしていて、それがかえって素朴な魅力を盛り上げていた。
「失礼します」
「どうぞどうぞ」
「ごゆっくり」
 夫に重なるように言って、夫人は離れた。
「初めまして。相原 拓男と申します」
 準備されていた座布団に正座し、相原はまず名乗って名刺を出した。
「こちらこそ。内海 輝です。名刺は切らしておりまして、申し訳ありません」
「とんでもございません。この度は、甚だ不躾な願い事になりまして、わざわざお時間を……」
「あー、いやいや、そう硬くならんで下さい。お膝も崩して」
「恐れ入ります。では失礼します」
「うちの山のイタドリをまとまった形で採りたいというお話ですが、失礼ながら売るほどのものなのですか?」
 内海の方から持ちかけてくれてありがたいし、その質問は当然想定していた。
「はい。大量生産したものをコンビニやスーパーで売る、という感覚ではありません。一度塩漬けにすれば長持ちしますし、商談相手をもてなす時にお出しして、気に入って下されば一緒に買って頂こうと考えています。一気に爆発的に広めるものでもありません」
 脇役は脇役に徹させるのが常道だろう。
「ふむ……」
「失礼します」
 襖が今一度開き、夫人が茶と茶菓子を出した。
「ありがとうございます」
「粗末なものですが、どうぞ」
 丁寧に挨拶して、夫人は部屋を出た。
「イタドリなんてものはその辺で生えていますし、わざわざうちの山から採ることもないでしょう」
「いえ、私としても買うからにはしっかりした約束が交わせる方とお話がしたいです。内海様はまとまった土地をお持ちですし」
「仮にあなたがうちの山にあるイタドリを買ったとして、うちの名前を出すおつもりですか?」
「いえ、それがお気に召さなければ出さなくても差し支えありません」
 内海は土地を貸すだけという形であり、あとは全て相原の責任となる。
「ふむ……」
 同じ台詞を繰り返し、内海は茶を飲んだ。
「年間でまとまった量が必要だとか、法律上の責任があるとか、それはないんですね?」
「ございません」
 相原の返事に、内海は茶碗を撫でながら暫し黙考した。
「結論を述べる前に、今年の分はほとんど姪が取ってしまいました。先にお話しなくて失礼ですが、少なくとも来年まで待って頂くことにはなろうかと」
 すぐに察しがついた。それがあれか。なんとも痛し痒しな展開で危うく苦笑するところだった。内海のやり方ではないが、今は黙っておいた方が得策だろう。
「勿論、ご親戚が必要となさるのならそちらを優先なさるのは当然でございます」
「いえ、姪の意見も聞かねばなりませんし、決して今すぐお断りするつもりでもありませんから」
「かしこまりました。恐縮ですが、いつ頃次のお話を伺えますでしょうか」
「そうですね、今晩中にはお電話しますよ」
「ありがとうございます。大変お世話になります。それと、こちらはそれこそ粗品でございますが」
 相原は一升瓶を出した。形式上、内海は一回は固辞したが、相原がたって勧めたので受け取った。こうして最初の話は終わった。まだ手をつけていなかった茶を飲み、頭を下げてから家を出た。
 東京に帰り、その日の晩にまず自宅から親に電話して礼を述べた。内海氏はおおいに関心を寄せていた、ということだった。それから数時間して、内海氏から電話がかかってきた。
「はい、相原でございます」
「内海です。本日はお世話になりました。早速ながら、姪からは、実はあなたと偶然会っていたかもしれないと聞きましたが、本当ですか」
 咎めた口調ではなく純粋に驚いているようだ。
「お話が一致するかどうかわかりませんが、数日前に役場の近くの山で倒れかけた女性を手助けしてお茶とお弁当を振る舞いました」
「それなら間違いありません。姪がお世話になったにもかかわらず、気づきもせず申し訳ございませんでした」
「いえ、そんな。私こそ、黙ったままで」
「それで、姪からは、是非一緒にイタドリを世間様に知らせていきたいと聞きました。いかがでしょうか」
「願ってもないお話です。本当に助かります」
 嘘偽りのない本音だった。
「では、姪の電話番号をお伝えしますが、構いませんか? あとは姪とお話するということで」
「ありがとうございます」
 内海氏からもたらされた電話番号を控え、重ねて丁重に感謝して電話を切った。それからすぐ内海氏の姪に電話をかけた。
「はい、内海です」
 山で耳にした声が受話器からもたらされた。
「今晩は。相原です」
「相原さん! この前はありがとうございます!」
「いえいえ。ご親戚からお話を伺いましたが、私としても感謝感激です」
「そんなそんな。あの、イタドリどうでした?」
「ええ、あれから早速頂きました。とてもおいしかったです。もっとも、半分以上は瓶詰にしました」
「私もそうしてます。美味しいですよね、イタドリ」
 つまり、彼女はストックを抱えている。
「じゃあ、私が作ったものと、あなたが作ったものとで互いに試食し合いませんか?」
「いいですよ。負けませんからね」
 おどけて締め括った彼女に、日時を決めて約束を交わした。電話はそれで済んだ。
 数日後。内海のいる集落からは少し離れた街の公園で、相原は内海を待った。狭い自治体で夫婦でもない男女が並んでいるとつまらない噂が流れてしまう。内海は免許しか持っていなかったが、自分の母親から借りてやってくるそうだ。移動手段もばらばらにした方が互いに余計な気を遣わないので、敢えて送迎は申し出なかった。
「今日は。お待たせしました」
 時間通りに現れた内海は、相変わらず赤い帽子に藍色のジーンズ風ワンピースを身につけている。
「今日は。早速始めましょうか」
 あずまやのテーブルに、二人は座って弁当を見せ合った。相原はイタドリの豚バラ炒めの他はごくありきたりな弁当を作ってきた。内海が用意したのは白飯にイタドリの煮物とイタドリのハム巻きとイタドリのサラダにイタドリの味噌汁だった。
「な……中々に気合いが入っていますね」
「はいっ。何事も最初が肝心ですから。これがほんとのビジネスランチですね」
 もう少しで吹き出すところだった。
「頂きます」
 唱和してから弁当を交換し、互いの料理を口にした。内海の作った料理はどれも美味だが、イタドリに歯応えがあるせいで次第に顎が疲れてきた。
「相原さんのお弁当、とても美味しいです。ちゃんとイタドリに合う他のおかずも用意してこられたんですね」
「ま、まあ……。内海さんのも申し分ないですよ」
 相原は事実を述べた。
「ほんとですか? やったあ!」
 無邪気にはしゃぐ内海を目にして、相原は得難い商売仲間を獲得できたと確信した。
「ご馳走様でした」
 食事が終わり、二人は弁当箱を相手に返した。
「どれもとても美味しかったです。レシピがあれば送って頂けますか?」
 相原が頼むと、内海は喜んでうなずいた。
「さて、具体的なお話と、契約書についてまとめておいていいですか? 今すぐお返事して頂かなくて構いません」
「はい、聞きたいです」
 相原は、持参の書類鞄からタブレットを出した。紙だの判子だのといった品は最初から使わない。スペースの問題もあるが、セキュリティさえしっかりしておけば電子化に勝る能率はない。
 タブレットの画面に呼び出した簡単な契約書の中身を、相原は一つ一つ丹念に説明した。要約すれば、毎年旬の時期に内海は伯父の山からイタドリを採って相原に渡す。相原は相応の値段を払う。加工や販売について内海が協力するならその時々で別個に報酬を出す。採取や加工等が原因で傷病にかかった時に備え、相原は労災等の保険を内海の為にかけておく。つまり、労使において相原は内海の使用者となる。一度契約が交わされれば、内海と来年の春までまるきり無縁ということでもない。新しいメニューの試作や試食もあるし、場合によっては二人でイタドリを誰かに勧める状況もある。それは、明確に説明しておいた。
「メールアドレスを教えて頂けますか? 契約書を内海さんのスマホに送信しますから、その気があるなら署名欄に名前を入力して送り返して下さい」
「ありがとうございます」
 つつがなく契約書を送信し終わり、この日の要件は全て落着した。
「じゃあ、今日はこれで。ご親戚にはくれぐれもよろしくお願いいたします」
「はい、確かにそう伝えます」
 こうして、相原は内海と別々に公園を出て帰宅した。それから二日ほど過ぎた晩、さすがにイタドリはやめて、イワシの缶詰でウイスキーを飲みかけたところに電話がかかってきた。内海の伯父からだ。
「夜分に失礼します。今、お時間はありますか?」
「はい、なんでしょう」
 ウイスキーはまだ一口しか飲んでいないので、特に問題にはならないだろう。
「姪からは、丁寧に説明して頂いて納得にも至りましたし恐縮しているとのことです。私からもお礼を申し上げます」
「いえ、とんでもございません」
「それともう一つ、全く違う件でご意見を伺いたいことがあります」
「仰って下さい」
「私の持ち山に、鯉上げの滝という滝が敷地の一部にかかっているところがありまして。実は、温泉宿のかわせみ荘から土地の買い上げを打診されました」
 稲山もまた動き始めていた。どうやってかは不明瞭ながら、社内の意見をあんな短期間でまとめられるとは大したものだ。しかし、それは幾つもある障害の一つに過ぎない。現に、相原の意向は瞬時にまとめられていた。
「はい」
「相原さん、その土地にもイタドリは生えますし、聞けばまあ、かわせみ荘で鮒の養殖池を作るという計画だそうですが、応じて良いものでしょうか」
 稲山が自分の名前を出したとまでは考えられない。ただし、いつぞや滝で交わした会話は活用されただろう。
「わざわざお知らせ下さりありがとうございます。結論から申しますと、お断りになられた方が良いかと。一度手を加えた自然は中々元に戻りません」
 稲山に意地悪をするつもりは毛頭ない。だが、内海に対し正式に契約を持ちかけた以上、その利を削るような真似はできない。結果論を承知で極言するなら、稲山こそ相原に協力を要望しておかねばならなかったのだ。
「わかりました。お手間を取らせて申し訳ありません」
 電話が終わり、相原はぬるくなったウイスキーを一口飲んだ。良くある偶然で、稲山の立場まで慮る気持ちにはならない。等と考えているとメールが入った。内海からだ。今日の昼食会について簡単に礼を述べたあと、自分の伯父と似たような要件を打ち明けていた。問題は、伯父が云々ではなく稲山から説明を受けたとのことだ。そう言えば、内海はかわせみ荘でアルバイトをしていた。内海の説明によれば、稲山は地権者と名前が同じということで内海を内々に呼び出し、実際に親戚と確かめると参考材料にしたいからとあれこれ尋ねたそうだ。好みのアルコールの銘柄から趣味の盆栽まで幅広く問い合わせてきた。それ自体は業務の一貫だし、内海も答えられる限りは答えた。問題は、内海が稲山をとても尊敬している点にあった。内海は高校までずっと稲山の後輩で、なにかと可愛がって貰えたし、高校を卒業したあと中々就職できずに困っていた内海をかわせみ荘に取り持ったのも稲山だった。更には、アルバイトで実績を積んだ内海を正社員に登用する話も進んでいた。
 以上を読み終え、なんとも意地悪な展開に憮然として頬杖をついた。順序が逆だろう。内海の伯父の電話があと五分も遅ければ、もっと柔軟な手が打てた。今更電話をかけ直しても、それを契約相手の内海に知られでもしたら元も子もない。まさか、稲山はこんな程度のことで内海に八つ当たりはしないだろうが、いかにも歯切れが悪い。
 次善策として、まだ他の誰にも言わないようはっきり要望した上で、まず交渉の的になったその土地を二人で確認したいと返信した。すぐに返事がきて、同意した上で日時のすり合わせを提案してきたのですぐに調整した。あとは、内海を説得する材料を練り上げるだけだ。
 三日後の白昼、再び滝の登り口にある駐車場に車を止めた。地元なせいか、先日目にした内海が母から借りた車はない。自分だけだ。さておき、シナリオは頭の中でしかと反芻できている。相原は階段を登った。土地そのものまで直接行くのはさすがに一苦労だし、滝まで上がれば見晴らしが良いので説明にも苦労しない。そう打ち合わせたのだが、僅かながらも息苦しい。大損するかしないかの橋を渡ったことは何度かあるが、これはまた別種だ。
 階段が終わると、内海は既に待っていた。いつもの帽子をかぶっていた。
「今日は。お待たせしました」
 声をかけると、内海は振り向いた。
「今日は。わざわざすみません」
 いつもの人をくつろがせる笑顔が、今日は緊張のせいか堅苦しい。
「いえ」
「じゃあ、土地をご案内しますね」
「はい」
 内海は安全柵に近寄り、眼下の一点を指で示した。
「川の右側に一本の柳があります。そこから川に沿って滝壺までの間口で、奥行きは十メートルほどです。元は炭焼き窯を構えた土地でした」
「いい物件ですね」
 つい不動産めいた口調になった。
「本当に優良ですこと」
 背後からかかった皮肉たっぷりな口調に、思わず内海と同時に振り向いた。両腕を組んで、稲山が肩を怒らせている。
「稲山さん……」
 内海はそれだけ言うのがやっとだった。
「そら……稲山さん、なにか用か?」
 素っ気なく相原は聞いた。稲山に恐れ入る必要はない。
「内海さんにあります。内海さん、この際単刀直入に聞くけど、相原さんとはどんな関係?」
 そう問い詰める稲山の柳眉は、嫉妬とも憎悪とも困惑ともつかなかった。時間差からして、内海の伯父から拒絶されたあとかも知れない。
「商談の相手です」
 内海は堂々と答えた。足が震えているのが傍目にも分かる。
「商談?」
「イタドリを親戚の山で採取して、それを相原さんに売るんです」
「初めて聞きましたね、そんな商談。あなたはアルバイトだから副業は自由ですが、正社員登用の話もでているのですから慎重に考えるべきじゃないのですか?」
「それを背景に質問するのは筋違いでしょう」
 相原が割って入った。
「相原さん。ご存知ないかも知れませんが、弊社は社運をかけて鮒の養殖場を作ろうとしています。今ご覧になった土地も用地交渉にかかっています。内海さんはそれを知っていてあなたと商談しているという。率直に言って営業妨害です」
 滝の音よりもはるかに鋭い糾弾だった。
「時間差になりますが、私と内海さんの商談はそちら様の事業が始まる前に交わされたものです。従って優先権は私にあります」
「でも私はあなたに相談しましたよね? それよりも前からのことなんですか?」
「それはあとになります。ただし、稲山さんにはあくまで個人的な相談事として回答しただけです」
「それで内海さん。商談とやらは成立したんですか?」
「いいえ、まだです」
「それなら不幸中の幸いでした。商談を断りなさい。今すぐ」
「それこそ営業妨害でしょう。大体、地権者は内海さん本人じゃないんですよ」
「商談がまとまってしまえば結局は同じです。内海さん、早く決断しなさい」
 図らずも、相原と稲山の視線が内海に集中した。
「私、稲山さんをとても尊敬しています。感謝もしています。でも、会社の方針に沿って自分の意見を変えたくはありません」
「なんですって!?」
 稲山が声音を吊り上げた。
「相原さんとは知り合って少ししかたっていませんけど、家族以外でちゃんとした立場を保ったまま話ができる最初の男の人でした。地主は私の伯父に当たりますが、伯父も凄く気に入っていました。でも、私の個人的な商談で稲山さんの立場を貶めることはできません」
 察するに、稲山は内海を可愛がる一方で社内の貴重な味方としているのだろう。アルバイトとはいえ、狭い地域社会で土木業者の社長が親戚にいるのは大きな利点になる。本人が望むかどうかは別個にしても。
「二人とも……ごめんなさい!」
 内海は安全柵を乗り越え、川に……水面まで数十メートルあるが……飛び降りた。物も言わずに相原はあとを追った。心中ではなく内海を助ける為だ。
「内海さん! 相原さん!」
 柵にしがみついて稲山が叫んだ時、二つの水柱が上がった。飛沫が稲山の頬まで飛び散り、それでもなお稲山は呆然と立ち尽くしていた。

 5、再現

 青黒い川底は、相原の幼年期を思い出させた。あの頃、真夏の盛りに良く友人と岩から川に飛び込んだ。耳や鼻に水が入ってくる感触と、冷たさに身体が慣れてくる心地よさを受けながら、きらきら光っている水面を下から見上げるのが無性に楽しかった。山あいの川ではあるが、下流にダムがあるせいか鯉も遡上してきた。近づくと逃げ出すが、ダムには戻ろうとしなかった。いや、いつかは戻ったのだろうか。鮒は川では見当たらなかったものの、ダム湖で釣りをすればすぐ釣れた。逃がしたこともあれば持ち帰って母にせがみ、調理してもらったこともあった。……ああ、忘れていた。あの時、大抵は稲山と一緒だった。塩焼きにした鮒を二人で食べたこともあった。特に泥臭いとは思わなかった。泥臭い……川底が泥を巻き上げ……。
「ぶはぁっ!」
 水面から顔が出て、本能的に相原は息を吹き返した。首を左右に振ると、気絶した内海がうつ伏せになったまま下流へ流されている。顎紐のお陰か、帽子までそのままだった。とにかく全力で泳ぎ寄った。幸い、流れはそれほど複雑ではない。すぐに追いつき、服を掴んで力ずくで岸を目指した。それからの五分間は、相原が過去の生涯で振るった最大の馬鹿力になった。
 陸地に上がるや否や、内海の身体を仰向けに横たえ、帽子を外して襟元を緩めた。唇の端から血が流れている。どこか打ったのかも知れない。
「内海さん! 目を開けて下さい! 内海さん!」
 返事はなかった。相原はためらいなく人工呼吸と心臓マッサージを始めた。心の中で何度も謝罪しながら。
 まだ肌寒くもなる季節なのに、相原の全身は川の水よりも汗で濡れていた。
「うー……」
 内海が呻き、口からごぼごぼ血の混じった泡を吐いた。
「き、気がついたか!」
「相原さん……」
 喋りながら、内海は血を吐いた。
「いい、いい、今は喋らないで下さい」
 そう言いつつ、衝動的に飛び込んだせいで自分のスマホはどこかに無くしていた。仮にあっても衝撃と水浸しで壊れていただろう。内海も同じだ。こうなれば、稲山が機転を利かせるのを祈るしかない。見守る内に、内海の顔が青黒くなり、がたがた震え始めた。歯を食い縛って思案した挙げ句、相原は内海の服を脱がせて下着にした。その時初めて、右の脇腹に痣がついているのが分かった。岩かなにかにぶつけたのだろう。心臓マッサージがなにか悪影響を及ぼしていないよう、祈るしかない。苦悩しつつも内海の衣服を絞り、水を出した。元通りには着せず、上からかけておく。その直後、実にありがたい福音が聞こえた。救急車だ。
「頑張れ、もう少しで助けがくる」
 内海に呼びかけると、彼女はかすかにうなずいた。
 数分後には、内海は担架に乗せられ、速やかに運ばれた。稲山も付き添った。相原は、どこも痛くはないので共に付き添うと主張したが、念のために検査せねばならないという理由で同乗はしたものの病院では別々になった。その日の夜中までにはおおよその結論が出た。相原は軽い打撲だけで、湿布を渡されて終わった。内海については、肋骨にヒビが入っていた。口から出た血は着水のショックで喉が傷ついたものであり、いずれも後遺症なく回復するだろうということだった。前後の事情については、稲山が自分に全責任があると申し出た。この時相原も治療中だったので反論のしようがなかった。
 一週間後。かわせみ荘は、事情を吟味し誰の責任も問わないことになった。ただし鮒養殖場計画は当面のところ凍結とする。相原は、内海の伯父と両親の元へ謝罪しに行き、かえって内海の命を救ったことを感謝されて恐縮した。謝罪しに行ったのは稲山も同様だが、伝え聞いたところでは寛大に許したそうだ。稲山はまた、進退伺いをかわせみ荘に提出したが、上司はその場で破り捨てたとも聞いた。
 内海は更に二週間ほどして退院した。その頃には相原も内海も新しいスマホを既に手に入れていたし、むしろ以前より頻繁にメールを交わすようになった。退院と共に、内海は稲山と職場に謝罪し、その上で退職した。相原の助手として商人の修行を積むのが、彼女の選択だった。その為に東京へ引っ越した。
 全てが落ち着いた時には、初夏を迎えていた。ある日、いつものように内海と業務を終わらせ、自宅でイタドリの塩漬けをかじっていると、稲山からメールがきた。
『今日は。あれからお元気でしょうか。こちらは鮒こく定食にイタドリ小鉢を一品添えることにして、ご好評を頂戴しております。私どもの職場でも、質素な発泡スチロールで社内菜園を作り、イタドリの栽培を始めました。あの時は、私も目先の事業しか見えておらず、結果として相原さんにも内海さんにも大変なご迷惑をおかけしました。何度も何度も自問自答を重ね、まずは確実に成果が出せる内容を固めました。他の社員にも一人一人に頭を下げて今回のイタドリ小鉢に至りました。つきましては、よろしければ是非またかわせみ荘においで下さり、鮒こく定食をお楽しみ下さいませ』
 メールを読み終わった相原は、すぐに丁寧な謝礼を返信した。内海と共に近い内に是非伺うと添えて。そうしてから、ネットで鮒のぼりを検索した。ふーなん君が出てきたのには苦笑したが、現物の写真が出てくる。それを見ながら、簡単な設計図をこしらえた。ミニチュアの鮒のぼりを作る為なのは言うまでもない。

               終わり

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