ひねこ・いどっこ・ながねっこ

著:椎名小夜子

 昔々のそのまた昔、とある小さな漁村のお話。
 徳川大将軍のご時世にありまして、のんびりとした平和な日々が続いていた頃のお話でございます。
 小さな漁村は、名を「浮島」といいました。いいえ、決して離島ではありません。
 田畑を流れる川と、深々とした山、そして夕日がゆっくりと沈んでいく海に囲まれている土地でございます。
 それはまるで陸の孤島。
 ……というのが、浮島という地名の由来と伝えられています。
 その一方で、年老いた爺様の中には「むかあし、むかあし、川と海とが交わる丁度まんなかにぽつんと浮かぶ小さな島があったんじゃあ」と言う者もおりました。
 このように、由来は諸説ありますが、浮島は少々交通の便の良くない人口100人程度の小さな集落でした。
 浮島は田畑と川と山と海に囲まれておりましたので、人が集まって住居を構える場所がなかなか限られておりました。ですので、三軒とか、四件とかの家が、小高い山の上に、田畑の外れに、海が見える丘の上にと、こぢんまりと集まっておりました。

 そのなかに、とても仲の良い三つの家がありました。
 その三つの家は小さな山の麓にありまして、背にして並んでいました。
 そこは「滝ノ下」と呼ばれる集落でした。現代風の住所にすると「浮島小字滝ノ下」となる場所でございます。
 一番海に近い家は「ひねこ」と呼ばれておりました。これは名字や名前ではなく、屋号でございます。なにやら聞くところによると、その昔、大きな大きな舟を持っていたことが屋号の由来と言われております。ですから本来であれば「ふねこ」が正しいのかもしれません。しかし、そのようなことは誰も知りませんし、あまり興味もありません。知らないうちに「ふねこ」訛って訛って、今では「ひねこ」となれども、浮島の住民にとっては「ひねこ」は「ひねこ」なので皆「ひねこ」呼んでおりました。
 一番山に近い家は「いどっこ」と呼ばれておりました。こちらも屋号でございます。この屋号の由来は非常にわかりやすく、いどっこの家の裏には立派な立派な井戸がありました。遙か遠くに見える立派な円錐形の成層火山を源にした地下水が海へ向かう水脈の上に、いどっこの家は建っておりました。
 最後に、真ん中の家です。真ん中の家は「ながねっこ」と呼ばれておりました。どういう意味でしょうか? これは「ひねこ」と「いどっこ」の家に挟まれた「3件のうち真ん中にある家」というのが由来であると言われています。「まんなかの家っこ」という言葉が、これまた訛って訛って今では「ながねっこ」と、そういう訳でございます。
 三つの家がいつからそう呼ばれていたかは、誰も知りません。
 知っているのは「滝の下」という地名と、それぞれの屋号だけ。
 誰も気にしたりなどはしません。それに、気にした所で遙か昔のことですからわかりっこないでしょう。
 そんなつまらないことなんて気にせずに、滝の下の三つの家は家族ぐるみで仲良くしておりました。昔々のそのまた昔から、ずっと。

 ある日、ひねこの爺様が、ギイギイと荷車を押して帰ってきました。荷車は立派なイカが沢山入った木箱が3つも詰まれておりました。
 一箱はいどっこの家へ。もう一箱は、ながねっこの家へ。
 ひねこはこうして新鮮な海産物をよくいどっことながねっこにお裾分けしてくれました。
 それに応えるように、いどっこは潤沢な水をたっぷり使って育てた野菜をお裾分けし、ながねっこは山菜やきのこなどの山の幸をお裾分けしておりました。
 ひねこからイカの詰まった箱をもらった両家は大喜び。
 大人も子供も各家の女衆が総出で木箱にたっぷりと入ったイカを裁いていきます。
 今夜はイカの刺身です。年寄りから子供まで皆にこにこと楽しみにしていました。
 食べきれない分のイカは開いて、家の裏や納屋に干しておきます。乾いたイカは焼いて食べても良いですし、軽く炙って酒のつまみにしても良いものです。
 夕方頃、いどっことながねっこの家主は一緒にひねこの家に向かいました。勿論、ひねこの爺様にイカのお礼を言う為です。
「いつもいつも居色々と貰ってまって悪いなァ。有り難く食わせてもらうじゃ」
「いいんだいいんだ、俺もお前ェたちだがら、こうしてイカでも魚でもくれてやってんだがら」
 ひねこの爺様に変わって、仕事から帰宅していたひねこの家主が対応に応じました
 家主たち三人が話しているところに、台所から、ひょこりとひねこの爺様が顔を覗かせました。
 いどっことながねっこの顔をこっそりちらちらと見て、どうにも何か思案している様子です。そうして暫く悩んだ後に、ひねこの爺様は、ゆっくりと三人に近付いていきました。
「太助やァ。これも、くれでやればどうだべが」
 ひねこの爺様は大人の男の掌ほどの大きさの、大根のような胡瓜のような野菜を持っていました。
 太助と呼ばれたひねこの家主は、爺様の手にあるそれを見て、小さく「ほぅ」と呟きました。
「いいんだか? こりゃあ爺様の大好物だべ?」
「んんん……まあ、一本、二本、だば、まあいいべ。美味ェもんは皆して分げて食わねばなァ」
 爺様はそう答えながらも、なかなか名残惜しそうです。
 ひねこの家主は愉快げに笑い、爺様の手からその野菜を受け取り、いどっことながねっこへ差し出しました。
「だ、そうだ。こりゃあな、港に来る物売りが随分珍しいもんだっていうんで買ってみたんだ。なんでも徳川将軍様が大層気に入ってるもんらしくてな。摺り下ろして刺身だの蕎麦だのにちょいと付けて食うもんだ。なんとも言えんスーンとした味がするもんだ」
 見慣れない野菜をどっことながねっこは一本ずつそれを手に取り、ゴツゴツとしたを撫でてみたり、スンスンと香りを嗅いだりしてみました。なるほど、確かに鼻の奥を刺す様なスーッともツーンともする香りがします。
「この辺の山じゃあ、見ないもんだなァ」
 ながねっこが興味深そうに呟きました。
「物売りが言うに、この辺だと海からの潮風にやられて育たねえんだとさ」
 ひねこが答えました。
「物売りも将軍様が気に入ったもんだからなかなか手に入らんものだと言ってあったど。うちの爺様も大層気に入ってな、物売りが来たらいつも『今日はあるか、今日はあるか』と聞いてやがる。刺身を食うときに、摺り下ろしたのをたんまりと醤油に溶かして使ってな。最後は醤油まで飲んでまうんだわ」
 ひねこが話す傍らで、爺様は少し恥ずかしそうに視線を逸らしていました。
「こりゃあ、なんていうもんなんだ?」
 いどっこが聞きました。ひねこは質問に答えます。
「なんでも、わさび、とかいうらしい」

 わさびを貰って家に帰ってきたながねっこは、さっそく家族にその事を話しました。
「この野菜を摺り下ろして、醤油ば入れて、糠漬けみたいにするんだべが?」
 爺様はよくわからなさそうに首を傾げます。
「この皮も、剥いでしまっていいものなんだべが」
 嫁様もまた、よくわからなさそうに呟きました。
「少しだけ剥いで、少しだけやってみればいいべ。いくらひねこの爺様が醤油まで飲むくらい好きだってしても、おらだちの口に合うもんかはわがらねえもんだ」
 ながねっこの婆様がはっきりと言ったので、皆「それもそうだ」と頷き、わさびの先を少しだけ剥いて、摺り下ろしました。そして夕飯に並べ、刺身に使う醤油にちょいとばかし溶かしてみたのです。
 わさびなる野菜を摺り下ろしてみると、ツーンとした爽やかと辛いの中間にある香りがより一層広がりました。生姜よりも鼻につき、玉葱に似ているけれども香りだけでは涙は出ません。
 ながねっこの嫁様は下ろしたわさびをつまみ、軽く水気を絞ってみました。扱い方が全くわかりませんので、取り敢えずおろし生姜と同じようにしてみた次第であります。
 台所の影からそれを覗いていたながねっこの姉妹は、漂ってくる香りに少し困った様に眉尻を下げました。
 姉のそわが囁きます。
「なあ、りつ。おら、どうにもこの匂い、好ぎでねえじゃあ……」
 妹のりつも囁きます。
「そわもそう思うが。おらも、どうにも辛そうでまいねじゃあ……」
 姉妹が不安がっているうちに、夕食の支度ができました。
 飯に汁物、糠漬けにイカの刺身。今日はごちそうです。
 しかし、皆、どこか不安げでした。わさびが気になっていたからです。
「ほれ、仁兵衛。お前ェが家長なんだはんで、まずはお前ェが食うてみれ」
 婆様がはっきりした口調で言いました。その隣で爺様は、うん、うん、と頷いています。
 仁兵衛と呼ばれた家主は、どうにも気乗りしませんでした。見ず知らずのものを食べる事に不安を感じていたのです。しかし婆様も爺様も、妻様も娘らも見ているので「怖いから嫌だ」とは言い出せません。
 箸の先にちょこっとだけ掬うような量を醤油に溶かしました。醤油の香りが少しだけ爽やかな風に変わった気がします。イカをそこに、こちらもまた刺身の先っぽにちょこっとだけ付けました。
 うっすらと白く透明なイカの刺身を醤油が伝って茶色が広がっていきます。香りには、大分鼻も慣れてきました。
 ええいままよとながねっこは、刺身を口に入れました。
 もぐもぐ、もぐもぐもぐもぐ、もぐもぐもぐ。
 婆様、爺様、奥様に娘二人、10もの目がながねっこの家主の口元に向けられます。
 ごっくんと、イカを飲み込んだながねっこは、何も言わずに汁椀に手を伸ばして味噌汁を一口のみました。
 そして皆に聞こえる様な大きな声で
「うん、辛い!」
 と、言いました。
「なんとも辛い。こりゃあ、生姜や辛み大根とも、辛子とも違うぞ。だげども、後味はいいな。鼻にツーンとくるが、慣れてしまえば美味いのかもしれんなあ」
 家主の感想を聞いたながねっこの者たちはそれぞれ顔を見合わせて、各々が少しずつ刺身とわさび醤油に手を伸ばしました。
 大人たちはそれぞれ頷き、感想を言い合い、味噌汁をおかわりしながら、初めてのわさび醤油なるものを堪能しておりました。
 一方で、娘たち二人はやはり予想通り辛すぎて、残りの刺身は普通の醤油で食べました。

 ながねっこの夕飯がだいたい終盤にさしかかったところ、俄に外が騒がしくなりました。
 バタバタと人が走り回る音、騒がしく飛び交う大人の声に混ざって、男の子の苦しげな呻き声が夕暮れに木霊します。
「う゛ぐ、ぐ、う゛う゛う゛う゛う゛あ゛あ゛あ゛あ゛、あ゛あ゛、ふぅぅう゛ぐあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
 尋常ならざるその声にながねっこ全員が驚きました。
「与一の声でねェが!?」
 そわとりつの姉妹が立ち上がり、食べかけの飯も食器もそのままにして外に飛び出しました。
 不断ならば叱るところですが、明らかに尋常ならざる声に大人達も続きます。
 そわとりつの後を追うかたちで、悲鳴が聞こえたいどっこの家へと走りました。
「与一!?」
 先に隣家に着いた姉妹は乱暴に戸を開けて、幼馴染みであるいどっこの倅の名前を呼びました。
「う゛う゛う゛う゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
 与一は直立したまま硬直し、喉を逸らして目を見開き、声にならない声を上げ続けていました。そわとりつに気付いても、声が出ません。
 いどっこの家人がばたばたと走り回り、家の裏の井戸へ何度も何度も水を汲みに走ってまわっていました。
「なんだ、どしただ? 与一、どしてまったんだ?!」
 ながねっこの家主が現れても、大人たちには答える余裕がありません。
「みつ! みつは何処さ居る!?」
 そわが声を上げました。与一の妹であるみつは、目を見開いてカタカタと震えながら、居間の隅で身を潜めておりました。
「みつ! 一体何があっただ!?」
「与一は死んでまるんが?!」
 そわとりつが駆け寄って事情を聞きます。
 みつは震えながら、切れ切れに答えました。
「おとっちゃんが、ひねこの爺様から美味ェもんもらってきたってして、皆してどうやって食うんだべ、って、話して、それで、皆して、良い匂いだなあって話ばしていて、それで、飯ば作る手伝いしてたら、置いといたやつば、誰も見でねえうちに、与一が、ふざけで、がぶってして……」
 なるほど、どうやら、わさびに齧り付いたらしいということがわかりました。
 りつもそわも、追い付いてきたながねっこの大人たちも、どうしたらいいかわかりません。
 ただただ、小量でも味噌汁を何度も飲むほど辛かったわさびに齧り付いてしまった与一に同情するしかありません。
 ただ、ながねっこの家主と妻はハッと我に返り、水を汲みに走りいどっこの者たちの手伝いに回りました。りつとそわは、怯えているみつの傍に寄り添い、ながねっこの爺様は声にならない声を上げて涙を流し、時折ひくつき喉を詰まらせる与一の傍でどうにか落ち着かせようと試みていました。
 その頃、ながねっこの婆様は、完全に留守になっては火事場泥棒が来るやもしれぬと一人ながねっこの家に残り、刃渡り21cmのマタギ刀を構えて、不測の事態に備えておりました。

 大量の水を吐くほど飲んだいどっこの倅は、まだ舌に麻痺した様な感覚が残っていますがなんとか落ち着きを取り戻すことができました。いどっこの家族に散々叱られ、呆れられ、呂律が回っていない状態で何度も謝りました。
 それを見ていたながねっこの家主たちは「あんなものを丸囓りしたんだば、もう十分にバチが当たってるようなもんだ」と倅を庇ってあげました。
 いどっこの人間は疲労から怒りを通り越して呆れていましたが
「ながねっこのがそういうんだば……」
と、それ以上倅を責めることはしませんでした。
 そしてこんな自体があったものですから、歯形の付いたわさびをより一層慎重に扱い夕食を始めました。
 倅の与一だけはわさびを食べませんでしたが、いどっこの者たちには非常に好評でした。いどっこの者たちは、ながねっこの者たちよりも辛党であったようです。

 さて、これほどの大騒ぎがあったにも関わらず、隣接するひねこの家の者は誰もでてきません。
 それどころか、夕食の支度の面影も見えず、夕闇が迫っていても火の灯りすら見えません。
 庭先に干してあるイカの数も、随分と中途半端です。
 その様を訝しんだながねっこといどっこの家主が家に入ってみると、囲炉裏では灰に埋もれた炭が僅かに燻っていました。
 なんといえば良いのでしょうか?
 まるで、何か突然予想だにせぬ自体に見舞われ、一家総出て逃げ出したかのようです。
 先程まで和気藹々と話をしイカを分け合っていたいつもの日々だったのに……――

 ―― 時間は、ながねっこの家の者が和気藹々と夕食を食べていた頃に遡ります。
 ひねこの爺様の顔色が突然急に悪くなり、息苦しそうな呼吸をし始めました。
 容態を案じたひねこの家主は布団を敷いて爺様を寝かせようとしましたが、爺様は囲炉裏の傍から動きません。心臓の音が高鳴り、頭が揺さぶられている気分で、一歩でも動いたらきっと嘔吐してしまうだろう、と、爺様は思いました。遂に儂にもお迎えが来たか。爺様は死を覚悟し、座ったまま意識を失って、達磨の如くコロリと転がりました。
 ひねこの家の人間は大慌て。爺様が死んでしまった? いえ、どうやらまだ息はあるようです。
 今すぐ医者を呼べば、命だけは助かるかもしれない。
「だけども、お医者は、田植えで腰を痛めであったんでねえが」
 ひねこの嫁が泣きそうな声で言いました。
 そこで、ひねこの家主はそろそろ嫁探しも始める時期にさしかかった二人の息子を連れて、爺様を医者の家まで運ぶことを決断しました。
 先程まで新鮮なイカが詰まれていた荷車に布団を敷き、爺様を乗せます。
 ひねこの嫁は野良仕事で培われた健脚で一足先に医者の家へ向かい走り出しました。
 医者が住んでいる場所は、浮島の真ん中を流れる川の向こう側にある「青石」という集落です。
 滝ノ下から青石までは一度川沿いに海の方へ向かい、橋を渡って小さな丘の中程まで。歩いてなら約25分、走って10分から15分といったところでしょうか。
 不幸中の幸いは雨が降っておらず、道もぬかるんでおらず、川が氾濫して橋が落ちていないことでした。男衆はガタンガタタンと荷車を押す者・引く者・意識が朦朧としている爺様に話しかけ続ける者と分担して道を急ぎました。話は既に、嫁が、母が、医者に通してくれているはずだ。それを信じて、爺様がどうか一命を取り留める事を願って荷車で走り続けました。
 ひねこの婆様は、やはり火事場泥棒に備えて灯りの無い家に残っておりました。神棚の前に正座をし、その傍らには全長約2.8mの銛。若かりし頃は海女として彼女の名を知らぬ者は居なかったほどの腕前、例え衰えていたとしても野党相手に一「刺」報いる気構えで、婆様は爺様の無事を祈っておりました。
 あまりに必死に祈っていた事と、高齢の為に耳が遠くなっていた事が重なって、いどっこの騒ぎには気付かなかったのです。

 ―― ヒュッ、と風を切る音がして、ひねこの家に上がったいどっことながねっこの間の僅か50cm程の隙間に鋭い銛が放たれました。銛はそのまま居間の壁に刺さり、反動でぐらりぐらりと揺れております。
「なんだ、お前ェだちかぁ」
 ひねこの婆様は、ゆっくりとした足取りで壁に突き刺さった銛に近寄り、よいしょっとと言いながらそれを引き抜きました。
「な、何を、何ばして……」
 動転して言葉のでないながねっこの家主に、ひねこの婆様は小さな溜息を吐いて事情を説明しました。
「爺様が突然倒れでまったんだ……。医者は腰が悪くて動けねえってんで、今若いのが皆して青石まで爺様ば運んでらんだじゃ。私は走るのも何も出来ねえがら、万一賊でも来た時には銛でど突いてやるべってして留守番してらんだ」
 その話を聞いて、いどっことながねっこは爺様の命を心配をするべきなのか、己が命が助かった事を喜ぶべきなのか酷く困惑してしまいました。
 しかし、ひねこの婆様は海女として長年銛を扱い続けてきたのですから、暗闇の中でも二人が賊ではないとわかった瞬間に的を外したに違いありません。ながねっこといどっこは、そう思うことにして、各々の家へと帰っていきました。
 どうかひねこの爺様が一命を取り留めますように。
 その日の夜は、仲の良く並んだ三つの家からたったひとつの願いが祈られていました。

 翌々日、ひねこの爺様は無事に意識を取り戻しました。
 まだ青石にある医者の家にいますが、容態はとても安定してきたそうです。
 ひねこの爺様は「寿命が来たんだ」と気弱に言いました。
 ひねこの家主はそれを強く否定して、いどっこの倅がわさびを丸かじりして大騒ぎになった話を持ち出し、わさびの食べ過ぎが原因だったのだと爺様を強く叱りました。
 それを聞いていた医者は、ひねこの家主の意見をやんわりと否定して
「わさびは悪くはねえ。いや、確かに食べ過ぎは身体に毒だけれども、これは醤油まで飲んであったはんで、悪く当たってしまったんだべ」
 と、言いました。
 塩分の過剰摂取による高血圧症は、この頃はまだ、はっきりとした名前がありませんでしたから。

 なんとかひねこの爺様は一命を取り留め、後遺症も残らず、元気になって家に帰ることができました。
 いどっこの倅も翌日には口の中の痺れや違和感が回復したそうです。
 普段通りの生活が、滝ノ下に戻ってきました。
 以前の生活と変わった点は、知識がふたつ増えたこと。「わさびを一気に食べないこと」と「何であれ、食べ過ぎはよくないということ」という教訓でした。
 今日も滝ノ下に並んでいる、ひねこ、いどっこ、ながねっこの家はとても平和です。

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