肥沃の毒

著:おくい

6月であった。暦の上では乾季だが、まだまだ雨が降り続く日々である。アンタガが上を仰ぐと、扇椰子の葉がサラサラと音を立てて揺れるのが見えた。今は抜けるような青い空たが、午後にはスコールに見舞われるのだろう。西の空には群れている雲の姿がある。用事を済ませたら早く帰ろう。縄で体にくくり付けた大きな麻袋を背負い直し、アンタガは歩を進めた。火山の山頂からの噴煙も、今日はなびいていた。風があるようだ。

赤道をまたぎ、インド洋に並ぶ島々。小さなものも含めれば、何万という数になるその列島の一つに、ジャワ島はあった。かつていくつもの王国の隆盛と没落を見続けてきたその島は、今は広大なインドネシア共和国を構成する一員となっている。冬を知らない常夏の世界は、いつも果実と香辛料の匂いに満たされていた。

昼下がり、往来は行き交う人々で賑わい、彼らをあてにした露天商や屋台もまた道端に溢れている。バナナの衣揚げ、ココナッツぜんざい、キノコの串焼きに鶏肉麺…。アンタガは焼き菓子屋の前で足を止めた。すりおろしたココナッツの果肉に、タピオカ粉と砂糖を混ぜ合わせ焼いたものである。地面に並べられた素焼きの壺には、真っ赤に燃える木炭が見えた。生地を型に入れ、そのまま炭火にかけるのだ。焼きたてのものを紙に包んでもらう。小鉢ほどの大きさで、一つでも腹にたまる。アンタガはポケットからクシャクシャの紙幣とコインを取り出し、二つ買った。一つは自分用で、もう一つはちょっとした手土産のつもりだ。

大通りを外れ、狭い路地をいくつか曲がると、小さな住宅が肩を寄せ合っている区画に出る。コンクリート造りの平屋建てばかりで、2階以上あるものは少ない。敷地いっぱいに建物を作るため、家と家の境目がひどく不鮮明だ。時折、軒下に鳥籠が吊るされている。その鳴き声は日々の装飾となっていた。

中でも一際こじんまりとした、レンガ壁がむき出しの家屋が見える。
「イスマヤ、いるか。」
ジャワ様式のレリーフが施されたチークの扉を押し開け、アンタガは声をかけた。
入ってすぐに、壁一面に設えられた棚と、そこに並んだ数々のガラス瓶が目に入る。つんと鼻をさすのは、バンウコンや生姜の香りだ。ここは伝統的な生薬を扱う店だった。返事を待たず、アンタガは背負っていた麻袋を下ろした。それを棚の前にあるカウンターに載せる。窓が小さく、昼間でも薄暗いのは、この辺りの標準的な建築方法ゆえだ。

「相変わらず人相が悪いね、強盗かと思ったよ。」
奥からのっそりと、小太りの人物が姿を現す。柔和で剣呑、道化で賢人、男のような女のような、子供のような年寄りのような、なんとも評し難い天敵、イスマヤである。
「こんなしみったれた店に押し入る奴があるか。」
アンタガは麻袋の中身をカウンターに広げた。それはまだ蔓のついたキンマの葉、通称シリーであった。

アーモンドにも似た形をした葉は、光を返し艶々ときらめく。殺菌や消臭の効果を持ち、煎じれば目薬ともなるのだった。生薬にはしないものの、民間療法では何かと重宝する。アンタガは、こうしたものを時々売りに来ていた。

「新しいね。採ったばかりかい。」
山と積まれたシリーをかき分けながら、イスマヤが言った。
「そうだ。昨日の夕方だ。田んぼへ降りる畦道にはみ出してたんだよ、もうだいぶ邪魔になってたからな。」
南国植物の常ではあるが、シリーの蔓は放っておけばどんどんと伸びていく。それをたまに掃除がてら、イスマヤに売りつけるのだ。アンタガの住まいの周辺には、この手のものはいくらでもあった。
「食うか。」
先ほど買った焼き菓子をイスマヤに差し出す。
「じゃあついでにお茶も入れてよ。」
「何様だお前。」
いつもの軽口だ。アンタガはカウンターから離れ、店の隅に置いてあった椅子を引き寄せてきて腰を下ろした。やっと一息つける。ずっと歩き通しだったのだ。
その様子を、イスマヤは目を窄めて訝しげに眺める。
「どうかしたの、その足。」
「ああ、これか。」

アンタガは自らの左足を覗き込む。草履を脱いでみると、よく見えた。親指の付け根から土踏まずに向けて、ざっくりと切り傷が出来ている。昨日、シリーを刈っている際に何かを踏んでしまったのだ。野良仕事の時には裸足になるのが通例であった。

幸い、傷は深くなく、大したことはない。しかし、歩くとどうしても圧迫してしまうので、鈍い痛みはずっとあった。知らず知らずのうちに、足を引きずるような歩き方になっていたのかもしれない。それをイスマヤに見咎められたのだろう。
「そういうわけだ。マヌケなもんだろ。まあすぐ治るさ。」
「どうかな。」
イスマヤは嫌な笑い方をした。
「それ、ラジャハンかもしれないよ。」

「なんだ、それは。」
アンタガが憮然とした顔をすると、イスマヤはわざとらしく目を見開いた。
「驚いた。ラジャハンを知らないなんて。君、よくそれで百姓が務まるね。」
逐一大袈裟なのだ、イスマヤは。これでいつも口車に乗せられる。気に食わないながら、アンタガには無視することは出来なかった。一層に大きな手振りを加えて、イスマヤは告げる。
「命を蝕む、恐ろしい呪いのことだよ。」
心なしか、傷がじくじくと疼く気がした。

「ラジャハン…つまりラジャからなるもの。元々言葉の意味としては、御守りアジマットに使われる紋様や図像のことだったんだ。持ち主を厄災から遠ざける為に書き込まれる、祈りの文言。それをラジャと呼ぶ。祈りの言葉は聖典コーランから。もちろんアラビア文字を使ってだ。」
遠雷が聞こえる。天気が傾いてきたのかもしれない。早くここを出なければ帰れなくなってしまう。
「アジマットなあ。」
聞いたことはあった。不思議な力だか秘術だかが込められた、まじないのようなものだと記憶している。それ自体は革細工だったり、石だったり紙だったり、形は様々だが、とにかく何らかの文言や図柄が書き付けてあるそうだ。

「コーランを引用しているといっても、イスラム教が認めたものじゃないんじゃないか。」
ジャワ島は人口の実に9割がイスラム教徒である。人々の生活にはイスラム文化が浸透している一方で、イスラム布教以前のヒンドゥー文化や土着の神秘主義の残滓も健在だった。そうしたものが混ざり合い共存し、混沌とした土壌を作り出していると言える。
「その辺りは議論があるようだよ。合法だとする人も、教義に反するとする人もいる。まあどちらかといったら土着の習慣なんじゃないかな。」
カウンターに散らばるシリーを、イスマヤが寄せ集める。ふらりと奥へ姿を消したと思ったら、竹製の籠を持って戻ってきた。そこへ蔓ごとシリーを詰め込んでいく。
「でも、そこは根幹に過ぎない。アジマットに使われる紋様、ラジャハンは、いつしかそうした紋様を使うもの全般を指すようになっていく。アジマットと混同されることもあるし、拡大解釈される場合もある。言葉って生き物だよね。」
日が陰ってきたのだろう。視界の明度がより下がったようだ。
「そして、特にこの地域では、とある類型の呪術のことを指すようになった。」

いつ頃からか、農夫たちの間で囁かれる噂があった。この辺りには、時々ラジャハンが埋まっている田畑があるのだと。花か何かを入れた包みで、それを埋めておくと作物を盗まれないのだと言う。

持ち主の利益を守護するそれは、しかし畑に立ち入る他人に牙を剥く。うっかりよその畑でラジャハンを踏んでしまうと、呪いを受けてしまうのだ。それで死んでしまう人が何人も出た。

「何人もって…本当なのかそれは。」
「そうだよ。これは『ラジャハンで死んだ人がいる』という話なんだ。」
こういう時のイスマヤは実に生き生きとしている。
「急に死ぬのか。」
「ラジャハンを踏んだ足は腫れ、徐々に体がいうことを聞かなくなってきて、痙攣を起こす。手足はこわばり、やがて絶命する。」

何を。
何を踏んだのだったか。
昨日の夕暮れ、畦道脇の草むらで。
木の枝か、ガラス片か、それとも…

気にしなかった。あまり見ようとしなかった。あそこには、何が、あったのだろう。

急に湿り気を帯びた風が吹いた。開け放したままのチークの扉から吹き付け、店内を涼やかにしていく。雨だ。雨が降る直前の特有の香り。土と落ち葉とミミズの匂い。

先程より近くなった雷鳴の後、天から真っ直ぐに叩きつけるようなスコールがきた。太陽に熱せられていたアスファルトはあっという間に冷やされ、むき出しの地面では土塊が跳ねる。恵みの雨。清涼。だが痛いほどに降り注ぐ豪雨に、人はそこから動けなくなってしまう。

今頃、あの畦道にも雨が降っているだろうか。雨は地面に染み込み土を潤す。地中に潜むというラジャハンも、染み込む水に浸されるのだろうか。そこにある呪詛は濡れて腐って分解されないのだろうか。

「と、いうのが、」
突然イスマヤが声の調子を変えた。ハッと暫しの夢から醒める。
「人口に膾炙するラジャハンなわけだけど。」
シリーをくるくると指でもてあそぶ。葉の表と裏が次々に入れ替わった。
「まあ実態としては破傷風なんじゃないかと私は思うよ。」
「…は、」
破傷風。傷口から菌が入り、その毒素で時に死に至る疾患だったか。
「お前、ラジャハンで死人が出た話だったんじゃないのか。」
「そう。死人が出た。そしてその原因はラジャハンだったということになっている。ここは動かぬ事実だよ。」

イスマヤはアンタガの足元を指差した。
「ここらで履き物が普及したのはいつからか知ってる?所有しているということではなくて、日常的に使用するという意味でだ。」
「さあな。良くてこの30年くらいだろ。おっさんたちなんかは裸足で通学してたんじゃないか。」
「今でも君のようにすぐ草履を脱いでしまう人がいるくらいだからね。昔なんか推して知るべしだ。」
物がなく、貧しかった時代。先進国の人間からは想像もつかないような暮らしがそこにはあった。年中温暖な気候もあり、履き物は生活用品の中でも優先度の低いものだったのだ。

「裸足で農作業をし、釘だかガラスだかを踏んで怪我をしてしまう。でも衛生医療の知識もなく、薬や医者は非常に高価だったから、特に手当てをしない。むしろ血を止めるために傷口に土を塗り込むことさえしていた。そして破傷風になるわけだけど、医者にかかるわけじゃないから原因も分からない。だからラジャハンのせいだとなる。これは解釈の問題だ。」
アンタガはようやく言わんとしていることが掴めてきた。

「つまり因果が逆なんだ。呪術がよく行われたから死人が出たんじゃなくて、破傷風が頻発したからラジャハンの話が出来たのではないのか。何かを踏んでから怪死を遂げるその現象に、ラジャハンという名前と理屈を与えたのではないか。」
イスマヤは内緒話でもするように、カウンターから身を乗り出して囁く。
「だってね、そんなにあちこちに仕掛けられているという割に、ラジャハンがどんなものなのか、誰も知らないんだ。見た人もいない、作り方も分からない。」
轟々という屋根瓦を叩く雨音は時折弱くなりまた強くなり、絶え間なく耳に届く。そういえば、昔友人らと、雨が雷を呼ぶのか、雷が雨を呼ぶのかと議論し合ったことがあった。あれはどう帰結したのだったか、もう思い出せない。

「今は、破傷風は妊婦や乳幼児への予防接種として義務付けられている。それだけ多かったということだよ、罹患する人が。」
カウンターを回ってこちら側へやってきたイスマヤは、何枚かのシリーをアンタガに手渡す。
「甘く見ない方がいいよ。どうせ消毒も何もしなかったんだろう。精々気をつけるんだね。君の足元にはさぞかし沢山のラジャハンが埋まっているよ。」
「本当に、悪趣味だお前は。」
苦々しい思いで葉脈の感触を確かめた。

「怪死があれば、そこにラジャハンがあったことになる。でも、その方が怖くないか。」
焼き菓子はすっかり冷めてしまったが、イスマヤは意に介した様子もなくかぶりついている。元々食べ物の味には頓着しない方だった。
「だって人為的な呪いなんだろ。顔見知りの誰かが埋めたのかもしれない。そんな危険なことをする奴が、近くにいるかもしれないってことじゃないか。」
仄暗い中、イスマヤが笑みを浮かべたのが分かる。いつも、泣いているのか笑っているのか分からないような表情をするのだ。
「不安なんだよ。原因が分からないというのは。結果だけ示されて宙ぶらりんではいられない。誰が埋めたのかは問題ではないんだ。良くないことの元凶としてラジャハンがあれば、それで因果の均衡が整って納得出来るんだよ。」
正体のわからないものより、恐ろしい呪詛の方が落ち着いて共存出来る。それは共同体における一つの役割であり、解決であった。確かにこれは呪いだ。アンタガは傷を撫でながら降り続く雨を見つめた。

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