椅子の話

著:館長仮名

 もうじき太陽が落ち切ってしまう宵の時刻。あなたは思ったよりも早くに、予約を取った宿へ辿り着けそうだと安堵した事だろう。
 なにせここは見知らぬ土地で、これから宿泊するのは地図にも載っていない隠れ家の宿。観光に訪れたのなら、この旅館に泊まらねば通ではないとまで言われている場所だ。
 今しがた通り過ぎて来た湖から、ぱしゃんと水音が聴こえた。跳ねた魚が尾ひれで水面を叩く涼やかな音。ふと振り返れば、視界に入るのは残光を受けて黒々とした影になった樹木達。その遠景に始まりつつある夜空では、都会で見上げるよりずっと多くの星が瞬いている。柔らかな風が葉を揺らし、ちかちか瞬く白や青の星の色は賑やかだが、通る人が他にいないためか。目に映る景色はずっと穏やかで寂しい。
 ふと、貴方は道を間違えたのではないだろうかという不安に囚われる。
 何べんも確認したルートは、湖の手前に伸びる分かれ道を左に行くというものだった。そんな気がする。
 昼間、食事をした定食屋で地図につけて貰った印を確かめるため、鞄に手を伸ばしたところだった。
 唐突な足音が背後から近づいてくる。
 思案に気を取られていたためか、それとも至近に入るまで相手が気配を殺していたのか。振り返った先、思いのほかその人影との距離が近かったので、影からぬっと突然立ちあらわれたのではないかと思うほどだった。
 かさかさと足元の雑草を踏み分けてやってきたのは、年若いひとりの青年である。
 片手にトランク、もう片手には黒い樫を削って作られた杖を。目深に被ったシルクハットを杖持つ手でちょいと持ち上げると、ミントグリーンの明るい双眸がぱちりと瞬きをした。
 息を呑んで見つめていたあなたは、こんばんは、と意を決して声をかける。黒いマントを着込んだ青年は旅行者らしいのだが、井出達は時代錯誤な旅支度だった。クラシックなトランクは革張りのようだし、何も荷物を入れなくともそれだけで重たそうだ。シャツの袖についたカフスボタンも、どこかの貴族の紋章を思わせる意匠でいささか野暮ったい。
 街中ならともかく、今時こんな格好で人里離れた場所へ徒歩でやってくるだろうか。
 疑問が湧き上がる毎に緊張も増したが、紳士然とした青年は思いがけず屈託のない笑みを見せると、帽子を脱いで頭を下げてきた。圧されていた金髪がふわりと風を含んで広がる。ここまで休みなしで歩いてきたのだろうか。白い肌へ差した赤味がさっきまでの非現実的な妄想を打ち砕くように生き生きとして映ったので、それに貴方の気は緩む。

 近くの街からいらしたんですか。君も、ここにある隠れ家の宿を目指して?
 シルクハットを被り直した彼と共に、再び前を指して歩き出しながら問いかける。彼ははにかんで頷き、すいと杖の先で夜道の奥を示した。
 ぼんやりと明るい。近づくと、それが木造建築の洋館であるのに気づく。門柱に設えられた丸い照明の中で、赤々と火が灯っていた。ガス灯だろうか、森の奥のお屋敷というシチュエーションも相まって、絵本の中に出てくる景色みたいだ。
 感心したように外灯を見上げていた貴方は、地面に落ちてきらきらと光を反射しているものに気づいた。
 土くれのついたそれを拾い上げる。ペットボトルのキャップ程度の大きさのそれを転がすと、ささやかな光を反射して、鮮やかな緑色、明るい青色、燃えるような橙色と表情を変えていく。
 一瞬ガラスの破片かと疑ったが、どちらかというと装飾として用いられる貝殻の色彩変化に近い。
 ひょいと手元を覗き込んでくる青年の影によって、丸い欠片は見る間に色を失ってしまった。顔を上げると、予期せずして真剣な顔を見せている相手の変化に気づいた。
 静かに首を横に振る仕草の他に、彼が口を開いて言葉を発したり、無理やり手を伸ばしてきてどうこうする様子はない。きっぱりとした否定は、どうやらその不思議な品物を拾い上げた行動を非難しているらしかった。
 置いて行きなさい、と示すように、手元の欠片を指さして地面に向ける。その頑なな態度に、すっかりそれをお土産として持ち帰る気でいたあなたは、少々気分を害したかもしれない。が、ここで押し問答をしていても始まらないので、最後には折れる事になる。
 元通り地面へその宝石が置かれると、彼は満足そうに頷き、深々と頭を下げてから館の入口へと向かった。
 年若い紳士の目が離れたのを確かめて、あなたはさっと膝を折ると、心惹かれてやまなかった欠片を拾い上げて、ポケットへと滑り込ませた。確かに、ついさっき会ったばかりで、しかも名前を名乗りもしない相手の言う事を聞く道理はなかった。どうしてそうしてくれと望むのか、理由も言わないのでは。
 アプローチを転々と続く灯りの先から、青年が手招いている。何食わぬ顔でその隣へ追いつくと、目の前でどっしり構える扉を開くべく真鍮製のノブへと手を掛けた。

「やあやあ、いらっしゃい。お待ちしておりましたよ」
 開いた扉の先、フロントと思しき机に向かっていた大男が笑いながら手を振った。緋色のジャケットに真っ白なシャツも目を引くが、何よりその巨躯が圧倒的だ。男は椅子に座っているのに、立っているあなたや青年と同じくらいの目線なのだ。
 夢でも見ているのだろうか。
 思わず頬をつねりかけたあなたを置いて、黒い外套の若き紳士は、恐れ知らずの足取りで座した巨人に近づいていく。
「お連れ様ですかな?」
 几帳面にねじった黒い口ひげの下、大男の唇は三日月の弧を描いて笑っている。それに対し、机上へあったメモ帳へ青年が何事かをさらさら書き付けた。身じろいでそれを覗く男。ははあ、と得心がいったような溜息が、入口に程近い場所へ立っているあなたの頬を撫でた、ような気がしないだろうか。
「さようですか。ではダーミット様とは別のお部屋を取られているんですね」
 そういえばここへ至るまで一言も口を利かなかったので、青年の名前がダーミットであるのも初めて知ったのだった。
 無事にチェックインの手続きを済ませたらしいダーミットに続き、自分も部屋の鍵を受け取るべく歩み出した時だった。あなたは何気なくやった目の先で、とても魅力的な椅子をみつける。
 木製のローテーブルと同じ飴色の木材でこしらえられた椅子はいくつか用意されていたが、見る限りロッキングチェアはそのひとつだけのようだった。誰も座っていないのにゆらゆらと安らかに揺れるさまはゆりかごを思わせる。
 いや。先客は居た。
 しなやかな尾を垂らして寝こける一匹の黒猫。座面に体を横たえている姿は、時折尻尾が動かなければよくできた人形にしか見えない。
「お客様はその椅子にご興味があるのですね?」
 顔の横で声がしてぎょっとするが、赤いジャケットの巨人は変わらずフロントの椅子にどっしりと構えていた。にこにこした笑みは面へ張り付いたまま崩れない。
「その椅子に座ると、■■になってしまうんですよ」
 ――なんだって?
「例え■■になっても、座りたいと仰る方が後を絶たないんです」
 聞き取れなかった部分を改めて聞き直しても、拾い上げた音の意味を解釈できない。何か言っているのはわかるのに、何を言っているのかがわからない。
「お座りになればわかります」
 あなたの胸の内を見透かしたように、フロントマンは揚々と告げた。よほど自慢の椅子なのだろう。
 踏み出した足取りは誘われるままロッキングチェアに近づいてゆく。
 それがあなた自身の意思ではないと気づいたとしても、一体どんな抵抗ができたというのだろう。肘掛けは新しい訪問者を歓迎するために磨き上げられていて、掌を沿わせたらしっくりくるに違いない。座面にあるビロードのクッションは使い込まれた印象と裏腹に、中の綿が十分な空気を抱いて柔らかそうだ。腰かけぬという選択肢などない。猫などちょいとどかしてしまえばよいのだ。
 永劫にも思える渇望が巡って、完璧な玉座に手が届く。
 そこへ座ろうとしてしまう、前に。目の端を横切ったのは白い影。
 紙飛行機だった。
 すやすや眠る黒猫の背に危うげなき着陸を果たしたそれの翼には、流れる筆跡で記されていた。

『その前に、返すものがありますよ』

 どきりとした。
 端的な言葉への説明は一切ない。だが、思い当たる節がある。
 誰のものとも知れぬ宝物を忍ばせているあなたには。

 寝入っていた猫が目を覚ました。爛々と見上げてくる瞳には多彩な色が遊び、こうしている間にも鮮やかな緑色、明るい青色、燃えるような橙色と移り変わってゆく。
 同じ色をついさっき手に入れたはずだ。
 夢見るような直感でしまい込んでいた宝石を取り出した。その背後で。
「あなたも■■になりたいんですか」
 抑揚がないくせに威圧感をもって迫る、野太い脅し文句が響いた。がたりと家具の引っ繰り返る音がする。背を向けているフロントの方からだ。腹に響く地鳴りめいた足音がひとつ。振り返る勇気も時間もない。幸いなのは、今や座面に立ち上がった猫へ宝石を差し出す間だけは、時が許してくれたこと。
 伸びあがる黒猫はみるみる内に安楽椅子より腰を上げた少女へと変貌した。黒いリネンのワンピースから伸びた細い両手が椀の形に丸められて、確かに輝く石の欠片を受け取っている。
「返してくれて、ありがとう」
 ぴょこんと安楽椅子より飛び降り、跳ねるようなお辞儀を残して。幼い娘は身軽に駆けて宿から出て行ってしまった。
 ぽかんと呆気に取られた思考の空白、あなたはあれほど魅力を感じていたロッキングチェアにも、宝石にもまったく心を動かされていないのに思い至る。
 そして無性に、この洋館から出て行きたくなっているのに気づいた。
 しかし、得体の知れない椅子と、得体の知れないフロントマンの狭間に置き去りとなった現状を、どう打破したものだろう。蛇に睨まれた蛙とは正しくこの事ではあるまいか。
 抜け出せない。
 背中に伝う冷汗が背骨をとつとつ撫で落ちた。
 緊張が糸のように張り詰めたフロントへ、ああ、と間の抜けた声が響く。

「どうやら二人して、宿を間違えていたようです」

 ダーミットが発したらしい一声で場に満ちていた呪縛が解けた。
 恐る恐る振り返ると、フロントマンは相変わらず笑みを絶やさず、青年が返す鍵を受け取っていた。
 誰かが暴れた形跡はまったく無い。一体さっきの家具を引っ繰り返すような音は何だったのだろう。不穏な脅し文句は?
「さようでございますか。それは大変失礼致しました。お二方はお客様ではないのですね」
 金色の鍵を受け取って、フロントマンは生臭い溜息をうっとりと吐いた。
「いやいや。非常に、残念だ――」

 ここへ到着してからそう経ってはいないはずだったのだが、気づけばとっくに夕暮れは過ぎ、すっかり夜が更けていた。真上から眩い月影注ぐ、今日は満月である。
 ダーミットは懐から黒い表紙の手帳を取り出すと文字を書き、微笑みながら文面を差し出してきた。
『湖の手前の分かれ道を、曲がらなければならなかったのですね』
 そう指摘されて、改めて地図を取り出す。そうだ。赤いペンでつけた道しるべは確かに、湖を通り越さず、その前に曲がらなければならないと示していた。
 そもそも、よく見てみたら湖の先に続く小道など、その果てに宿があるなど、地図には載ってすらいなかった。

 正しい分かれ道まで戻って来てから後ろを振り返り、目視で確かめる選択肢もあったが、賢明なあなたはそのような蛮行には勇まない。ただ、ふと気になって、傍らのダーミット青年へ問いかけた。
 さっき、宿を間違えたと言ったのは君だったと思うが、なぜそれまでも、そして今も筆談を貫いてきたのか。喋れるのなら、そうしてくれた方がいちいち字を書きつけるより楽だろうにと。
 笑いながら問うと、彼は無邪気に目を丸めてから、手帳を戻して新たなページをめくると、そこへ淀みなく書き付けてみせてきた。
 自分は訳あって声を使わないこと。それを頑なにずっと守り続けており、例外はないこと。

 だから、と続いた結びの一文が、わたし/おれ/ぼくには笑っているように見えた。

『あの声は、僕のものではありませんよ』

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