小指落としの怪

著:森凰みつちん

第一話

 
 空っぽの炊飯器を見つめていたとき、浩太郎はうちひしがれる思いに駆られた。あんまりにも何もないため、そのまま自分の器に当てはまるように思えたのだった。 
 器の計り知れない男であると自身に言い聞かせて生きてきたが、その器にからっきし中身がなく、底が知れていることはもう自身の心には隠しきれなかった。できれば目を背けていたかったと、自発的かつ自虐的な自らの心をせめ、さしあたって米を炊いた。 大学一年生の5月だった。然るべくして憂鬱になる季節。
 音楽、小説および絵画などの創作活動にエネルギーが向いたなら良かったのかもしれない。あるいは運動部に所属し汗水を流し、かつ飲みほしていたのならば充実感を得られたのかもしれない。
 しかし浩太郎は彼自身も驚くほどに人生において何も育んでいなかった。バンドを組みたいとか映画を撮りたいとか、そういったごくあたりまえの、漠然としたあこがれさえも芽生えたことがなかった。
 特別な思い入れを自分の中に見つけることができない。それでいて平穏な暮らしを望んでいるわけでもないのだ。
 ある道を極めたものだけが知る【熱】のような何かを感じてみたい……。
 そうして彼は早々に大学に行くのをやめ、部屋の中で何やらの修行に明け暮れた。
 それは【才能を要する現代芸術方面】であったが、詳細は彼自身にもよくわからなかった。【ナトリウム仮想推力水】や【ペットボトルロケット自転車】などの作品が生まれたが、それらがどこに出品されるかは彼自身も不明瞭であった。台所の塩を長時間水に浸したり、ペットボトルの内圧を測定する日々を過ごした。出来上がった作品は部屋のオブジェかあるいは装飾としてたたずんだ。
 それらしい名前をつけてはみたものの、彼は理系ではなく、こてこての文系だった。
 やがて12月になり、一年次の授業が終わりを迎えようとしていた。浩太郎は半年まえに受け取った大学からの前期通知の内容を思い出した。〈基礎語学の二単位〉以外の一切が不可であるという恐るべき結末と、打ちひしがれるままに後期課程も大学に行っていないという事実に、重力が下に作用するごとく【休学届け】という言葉に至った。
 それでいて部屋を出る気も起きない。
 学校に行っていないというコンプレックスからの精神的負担を考慮し、心身を休めるため自宅療養する必要があるように思われた。

 無限ループであることはわかっていたが、精神力ではどうにもできないのであった。
 授業を一つも取得していないはずの彼が二単位を得た由来は彼自身もわからない。何か大事な事があった気がするが、結果として〈基礎語学の二単位〉があるばかりだ。友人だっただろうか、と推測をしてみたが、浩太郎はそもそも大学に友達がいない。彼の話し相手は専ら、なまけもちと呼ばれる掌上のぬいぐるみ達か、もしくはベランダのプチトマトなどである。植物に話しかけると栄養が増すことを彼は信じている。
 なまけもち達は夜の寂しさに耐えかねたときのために枕元に放逐させているし、トマトは水を遣るたびに心が育まれる。一時でもベランダに出ることは引きこもりであることを忘れさせてくれる。
「どうして単位があるのだろうか」
浩太郎はカラーボックスに住まう、なまけもちの一匹に話しかけた。
「きっと日ごろの行いがいいからだよ」
 なまけもちの一匹が言った。青年の声帯が裏返ったような声だった。
 声を出す練習が必用だと考えての一人会話だったが、浩太郎はひどく虚しい気持ちに駆られた。日ごろの行いといっても、そもそも外に出ないため詭弁だ。寝る前だけ世界人類の幸福を祈ったこともあったがそれも三日と続かなかった。
 どうにもならないことは考えるのをやめるに限る。浩太郎は気分転換にトマトの世話でもしようと思い至る。
 台所で水を汲み、トマトを摘むボウルを持ってきたところで、何かがおかしいことに気づいた。
 部屋の窓際に置いていたはずの植木鉢がなくなっている。冬場に入ってからはベランダから取り込んで室内で世話をしていたはずなのだが、どこにも見当たらない。
 植木鉢は場所を取る物なので、見つからないと不安になってしまう。
 ひとまず気持ちを落ち着かせようとカーテンを開けると、ベランダの外で茶色いものがうごめくのが見えた気がした。
 それは室内においてあったはずの植木鉢だった。植木鉢はベランダの外にでて、窓ガラスの裏手に転がっていった。
 植木鉢は昨日までは室内にあったはずだ。
 怪訝に思いながらも窓を開け放ち、ふきすさぶ寒さに耐えながらベランダに顔を出す。
 植木鉢は狭いベランダでごろごろと半円を描くように転がっていた。
 近寄って見てみると、昨日まで確かにあったはずのトマトまでなくなっている。それも実だけでなく葉から茎から根こそぎ抜かれている。
 残っているのは土ばかり。どういうことなのかさっぱりわからないが、さしあたって植木鉢を部屋にいれる。誰かのいたずらにしてもアパートの二階である。大学に知り合いもいないのだから恨みを抱かれるいわれもない。

 
 一連の不可解なことに思いをはせていると、自分の両足の間から室内に向かって、水気のある点線が続いているのが見えた。
 点線は窓際からベットの下を通り、台所まで続いていた。
 何かしらの動物の足跡のように思えた。
 耳を凝らすが物音はしない。
 浩太郎は恐ろしく思いつつも虫や鼠かとあたりをつけ、冷凍スプレーを準備して足跡を辿った。
台所に近づくとざざざぁぁと米がぶちまけられるような音が聞こえた。
 目を凝らすとうっすらと丸いむっくりとした影が見えた。
 一歩、一歩、浩太郎は息をしのばせ台所に近づく。台所は窓がないため薄暗く異界めいていたが、立ち止まるわけには行かない。
 小動物か?
 その何かしかの輪郭がおぼろげに浮かんでくる。浩太郎はゆっくりと冷凍スプレーを構えた。
 それは虫でも動物でもなかった。
 人間の指だけを切り取りそれを赤ん坊ほどの大きさまで膨らませたような様態。
 目分量でみて30センチほど。ピカチュウよりも小さいといった具合だが、実物をみると大きい生き物というだけで、背筋が凍る。
 芋虫のようなむにむにとした手足が、人間と同じ配置で生えていた。
 もぞもぞと手に相当する部分を用いて、こちらにはお構いなしに米を口に入れている。
「なんじゃこりゃあっ」
 叫んではみたが、その何やらはお構い無しに食事を続けた。
 浩太郎は数歩後ずさったが「得体の知れないものに躊躇ってはいけない」と自らに言い聞かせる。恐ろしさを喉の奥に押しこみつつ、その何やらの背後に忍び寄り冷凍スプレーを噴射した。
 然るべくして、何やらの口からも霧状のものが噴出される。
 霧の飛沫は強力なパワーで、冷凍スプレーをかき消し、浩太郎の顔面に吹きかかった
 飛沫は薄暗闇の中でもぬめぬめと光っていて、緑やら紫やらのない交ぜになった色素を映した。
 夏の植物のただなかにいるような匂いに包まれ浩太郎は頭のぐらつきを覚えた。
「絶対毒だ」とわかる色味をしていた。確信したところでゆっくりと瞼が落ちやがて開かなくなる。
 痺れているのだということだけが理解できた。薄れゆく意識の中で、いつか大学で話しをした人の姿を思い出していた。
 

 

ベランダ栽培族という人種が世の中にいる。植木鉢で野菜などを栽培し、天の与えたもう命の尊さを、浮いた食費から読み取る人々である。浩太郎もそういった栽培が好きな人種で、トマトやパセリなどを植えては飢えをしのいで暮らしていた。
 あくる日のこと、彼は大学の近辺でベランダ栽培族を脅かす都市伝説がまかり通っていると耳にする。
【冬になって植木鉢を育てていると、知らない間に土の中に小指が入っているんだ】
巫女装束をきた女性はそのように説明していた。表情は影に隠れてよくみえない。
【植木鉢をどのように育てるのだろうか?】と細かい疑問に思ったが、言葉のあやを指摘するのもよくないので黙っていた。
【その妖怪は小指落としっていうの】
 なんでも飢え凍え埋められた旅人の魂が土に宿り、巡りめぐって植木鉢の土として使われたために、やるせない怨念となった、という。
 飢えるあまりに土を掘るが、食べ物は出ず、また土を掘り、そうして掘り続けて死んだ者の怨霊が、土を掘る指に宿って野菜の宿る埋まっているのだという。
指が出たときは栽培した野菜といっしょにどこか別の土に埋葬してやるのがいいのだそうだ。
 埋葬せぬ場合は、恨みの力によって指が赤ん坊ほどの大きさまで膨らみ、黒ずんだ妖怪となって人を食らい始める。
 真偽のほどは定かではない。だが浩太郎は大学の進学にあたって、故郷を離れ、はるか北上した身の上だった。
 地方の伝承は土地に根付いているだけあって侮れないと考えていた。
【小指落としが誕生した場合は、適切な処置が必要なのよ】
 巫女装束の女性がいう。
 風に吹かれて紅白のひらひらした布地がなびいている。
 この人はどうしてこんな恰好をしているのだろう、と思いながらも見とれている。視界もひらひらと薄ぼやけてくる。
 意識が現実へ返ってゆくのを感じる。
 一つだけ確かなことは浩太郎の通う大学に神道の学科は存在しないということだった。
 つまりあの巫女装束の女性は趣味で装束を纏っていた。
 あの女の子は何故巫女装束を着ていたのだろう?
 確かめることはできないまま、浩太郎は引きこもりになった。
 理由は……。理由は、思い出せない。
 強力なコンプレックスが刺激され、自分そのものが砕け散ってしまいそうな頭痛に苛まれたことだけは覚えている。
 確かなことは、闘うために引きこもっていたということだ。
 何かしかの力を得るために引きこもっていた。肯定的な引きこもりだ。
 詳細な動機を自らごまかしたまま、浩太郎は覚醒に連れ戻される。
 

 

目を覚ました彼の前には、小指を第一関節から切り取って赤ん坊ほどの大きさまで膨らませたようなものがいた。
 そのぶよぶよしたものは然るべき部位に顔があり、目鼻は手抜きで書かれた絵画のように穴だけがポツポツとついていていた。
 胴体は体毛なのか、こげ茶色の苔のようなものに覆われていて、顔の部分だけお猿のごとく純白の肌が露出していた。おそらく指の爪にあたる部分が妖気をうけて変化、成長したのだろう。
 浩太郎は地面に這い蹲ったままにらみ返してみた。だが返ってくるのは光の無い視線であった。星の光ひとつない夜の湖のような深い黒をたたえた瞳だった。妖怪は矮小なアリを観察する幼児のごとく、じっと視線をむけていた。
「何か、言えばいいのに」
 浩太郎がそうつぶやいても、小指の妖怪は「じっ」と見つめていた。
 浩太郎は恐怖で現実逃避を始める。妖怪などいるわけがないのだ。瞑想によって意識を隔絶する。自己とはすなはち意識……。意識を操作すれば世界は消え恐怖を克服する……。しかし現実逃避を許さないといわんばかりに、妖怪の口が開いた。
「お前は確実に死ぬ」
 それは死刑宣告だった。妖怪のしゃがれた声が現実であることを、滲んだ冷や汗が物語っていた。
 自分よりも小さい体躯だが、にょきにょきと生えている短い腕は妖気に満ちているように見えた。赤ん坊の身長なのに、太さも自分の腕と同じくらいである。さらには芋虫のごとくぬるぬるとした間接をもっているように見える。
首を締められるのだろうか。妖怪の腕の先端、手に位置する部位もまたこげ茶色の苔のような体毛に覆われていて、指のような枝分かれはないものの、蛇腹のように皴がうごめいている。
 苔の部分は滑り止めの役目を果たしているようで、何かを握ることはたやすいように見える。あらゆるものが吸い付いても不思議ではない。その手先を利用して起用に立ち回り、狡猾な手段を用いるのかもしれない。
「くっっそがぁ!」
 浩太郎は脱兎のごとく駆け出し玄関から外に出た。階段にけつまづきながら、がたがたと転びながら落ちた。痺れが足全体に広がるが歩けないほどではない。小指落としの動向をうかがうべく、じんと痺れた膝をさすりながら玄関のあたりを振り向く。
 こげ茶色の妖怪の影は見えなかった。
 変わりに真っ黒い二粒の飛沫が視界に飛び込み、両の眼球に目薬を打たれたような水っぽさが染み渡った。
 すぐさま激しい痛みを感じ、浩太郎は瞼をおさえうずくまる。毒液を生成したのかもしれないと想像する。
 さきほどの死刑宣告も相まって、浩太郎は絶望にうちひしがれた。
「おびえるな。醤油だ」
 耳元に柔らかいものが当たった。蛇腹のような皺の感触であった。暖かな感触で撫でられているようであった。
 浩太郎はいくぶんか警戒を解いて、おちついて対話を試みようと切り替える。
 熊に襲われたときと同じ対応……。引きこもりの彼が熊に会ったことがあるわけもないが、実体験の乏しい若者の、必死のあがきだった。
「妖怪か……始めて見るが、まあこういうこともあるのだろうな」
 浩太郎は涙と醤油で薄ぼやけた視界で妖怪の姿を見つめた。
小指の妖怪は言葉に反応したのか、ぽりぽりとあたまの右の角を掻いた。薄ぼやけた視界に、やわらかな三角の耳がぴょこんと起き上がるのが見えた。耳は柔らかそうにぴくぴくうごいている。
 
 
「やはりお前は確実に死ぬだろう」
「そうか。ならばひと思いにやればいい。痛いのは嫌だから、ひとくちで願う」
やはり人を喰らう妖怪、小指落としなのだな。
 脳裏にはいつか聞いた伝承が蘇っていた。
 植木鉢の確認を怠ったのがいけないのだろうと後悔する。
目を瞑って圧倒的な痛みを待ち構えた。今なら草食動物が牙を突き立てられる瞬間の気持ちを理解することができる気がした。
 時間がゆっくりと感じられる。
 死を悟った生命は、他者によって奪われる命の時間を、自分の時間感覚を押し広げることによって購うのかもしれない。
だが待てど暮らせど、狩猟はいっこうに行われなかった。浩太郎はゆっくりと瞼を開く。
 視界は回復している。同時に、浩太郎は小指の妖怪の殺意は、気の所為ではないかと思った。
 おそろしい言葉を吐いてはいるが、いっこうに危害を加えてこないためだ。
 見た目だけみれば小動物的で、けなげですらある。やがて小指の妖怪は瓶醤油の蓋をあけてとくとくと飲み始めていた。
 浩太郎は冷静さを取り戻し、妖怪の動向を伺うべく対話を試みる。
「お前は妖怪なのか」
 小指の何かはぴく、と耳を動かしこちらを向いた。あきれるように口をへの字に曲げ溜息のようなものをつき、部屋のあたりへと踵を返していった。階段を上る姿はこじんまりと丸みを帯びていて悲しげですらあった。
 妖怪の後ろに続き、浩太郎が階段を上りきるとドアノブに手を伸ばす妖怪の姿があった。腕が届かないようで、んぐんぐと体を伸ばしてみたり跳ねたりしていた。かすかにドアノブに触れるがいっこうに回る気配もない。
浩太郎は猫を導く要領でゆっくりとドアノブを開けてやった。妖怪はにゅると隙間に体をすべりこませ部屋に入った。やはり猫的なのだった。妖怪は振り返りみて再び
「お前は確実に死ぬ」
と言った。表面の言葉は無視して、浩太郎は冷蔵庫からいくつかの食べ物を見繕ってやることにした。牛乳を皿に開けてやると妖怪は優雅な動作で匂いを確認してから、酒でも飲むように皿の端をつまみ、とくとくと飲みだした。
 

第二話

食べ物を与えると妖怪は会話が成立するようになった。
「どうして、挨拶を返してくれないんだ」
 いくらか話をすると、あの死刑宣告が彼なりの挨拶だったことがわかった。
 寿命が長すぎて生きるのに飽きた妖怪は、日頃から死を思うことが習わしになっているという。
 すべての挨拶がささやかな祈りから生まれたように、彼らの【お前は確実に死ぬ】という挨拶も【どうか死ねますように】という祈りからきているのだという。あまりに長く生きすぎると死ねるかどうかさえも不安になるのだろう。
 紛らわしすぎる、と浩太郎は思ったが先ほどの死刑宣告が害意のあるものではないと知ると、向き合うゆとりが生まれた。
「念のためにもう一度聞くが、お前は妖怪なんだな」
「猫が自分を猫です、といえるベくも無かろう。やつらはただニャオンと泣くばかりだ」
「じゃあお前は何なんだ」
「見ればわかるだろう。妖怪だ」
 なんていやらしい奴! 浩太郎は一連の物言いに耐えかねたが、ここで機嫌を損ねてはいけないと思いぐぬぬと感情を押しとどめる。
「それじゃあ……何かこう、伝承とかに見られる特殊能力とかを持っていたりするのか」
「人間を不幸のどん底に陥れることができるぜ」
 小指落としは上手い飯が三杯はいけるとつぶやき、虫を潰して喜ぶ子供のように、にたあと笑みを浮かべた。
「人間を不幸に……なんてひどい!」
「生業だからだ。こうでなければ存在できない。存在したくないといったほうがいいだろうか」
「とても、迷惑な奴だな……」
「ではお前はこうとしか生きられないというわけではないのか。たとえば、ずっと家に閉じこもらねばならぬような」
 浩太郎は自分が引きこもりであることを見透かされ、赤面した。
 妖怪はにやにやとすべてを知っている口ぶりであった。すべてを見透かした口ぶりで「においがぷんぷんする」とだけのたまう。
 ブラフなのか雰囲気で悟られているのか。極めて直感的なレベルで見透かされている。
 いっそ隠すより開き直ったほうがいいのかもしれないと浩太郎は思う。
 
 
「確かに俺はひきこもりだ」
「ほう」
「だが様々なものをあきらめたわけではない。したがってお前ごときに不幸にされてたまるか。これ以上、底に堕ちてたまるか」
「別に君を不幸にしようというわけではない」
小指落しは座布団に頓挫し、にょろにょろとした腕を組んだ。
「何故ならすでに、どうしようもないからだ」
妖怪はこの部屋と周辺の幸福の係数が低下していることを説明した。浩太郎から放たれた瘴気が関わっているようだった。
「お前は心の回路がとくにどうしようもない。とにかく袋小路に陥っている。自分はダメだと思う事で、自分のダメさを強化するような、負のサイクルにまみれているのだ。 呼吸をするごとに奈落に堕ちていくような生き物になりつつある」
小指落しのいうことは、非常に心当たりがあるものだった。自分がどうしようもないときいて浩太郎はいまさらながらに愕然とする。
「俺の人生はもれなくドブの中なのか……」
「そうだ。それも、決して光の届かない澱に包まれている」
「そんなことはない……。ないはずだ! これからワンチャンスがあるはず……」
「放たれないボールは弧を描かない」
 声を荒げて反論したが、謎の格言をいわれ、浩太郎は返事に詰まった。
 小動物のくせに、妙な凄みがあり、言葉を封じられてしまうのだった。
「妖怪が来た時点で受け入れざるをえないことを、君は知っているのではないのか?」
 おいうちをかける様な物言いで小指落しは畳みかける。なんとか反論しようとするも、しどろもどろになって言葉が出てこない。
「人のところにおしかけて。何が、目的だ」
「まあ怒るな。僕は不幸な人間から何かを吸い取るわけではない」
 そうして小指落しは自分の在り様を説明した。
「人間を不幸のどん底に陥れるっていうのは方便だ。正確に言えば僕は【生命のもつ運が偏らない様に調整する役目】を担っている」
 この世界に圧倒的理不尽な現象がまかり通ることは熱力学的遍在現象の摂理だが、それに抗うのが生命の特質である、とのことだった。
 人間の代わりに特定の妖怪がこのような形而上的役目を背負っていると話した。
 妖怪は最後に【寄生させてくれれば、浩太郎の幸福の係数を普通の段階に戻す】ことを付け加えた。
 
 
「つまり俺は妖怪に認められるほど、ひどくどん底にいるのか?」
 わからないなりに受け入れてみた。
「それなりに理解力はあるようだな」
「でも、だからといって俺がお前を信じることはできない。絞りかすのほうが絞りやすいものだという可能性もある。お前が俺を絞りにきたのではないかと、そう思えてならない」
 小指落としは、はあ、とため息をつき棚の上に飛び乗る。上下関係をはっきり示しているようだった。
「どらえもんを知っているか。あれも妖怪の一種だ」
「嘘をつけ。あいつは猫型ロボットだろう」
「目の付け所が悪いな。どらえもんが生まれたのは、現実にはお前が生まれる前だろう。ならば作者はどらえもんに似た体験をどこかでしていると考えることはできないか」
 やたらと現代に精通している妖怪だった。
 それゆえにどこか正論じみていて説得力があった。
 自分の至らなさをつかれて浩太郎は押し騙る。どらえもんの作者自身のことなど知る由もないが、だからといって、そうでないことの証明もできないのだ。
「この世にはどらえもんのような存在が確かに存在する。ただ少しの間だけ共生して、ギブアンドテイクをするんだ。四次元ポケットはないがな」
 小指落としは独特の話の展開で青年を半ば引き込んでいた。
 魅力的なのか怪しいのか判然としない。それでも浩太郎はなんとか飲みこみ「考えさせてくれ」とさしあたり流されることにした。
「そうか。しばらくこの部屋の隅に住まわせてもらう。返事をしたかったらいつでも声をかけてくれ」
 そういって小指落としはベランダの植木鉢を頭にかぶり、押入れの奥に消えていった。
ほどなくしてから眠っているのを確かめようと覗いてみたが、果てしない闇が広がっているだけで、生きものの気配一つしなかった。
 保護色なのか次元を超えているのかはわからないが、妖怪は押入れの闇の中で息をひそめ居座っている。
 こうして闇のものとの奇妙な共同生活が始まった。

 夜になると小指落としはベランダの植木鉢を頭に被って寝た。
 浩太郎は特に何をすることも無く、パソコンでマニアックなゲームをして過ごした。 人と会話することのない一人用のゲームである。マニアックなゲームに飽きたら美少女ゲームをプレイする。人と会話をすることがない、というのが重要なポイントだった。
 わかってはいたが他に何をする気力も起きない。現実の残基はすでにゼロだったのだ。
 ゲームはオーバーしたら残基が回復する。けれど現実は残基が回復しない。現実は壊れたカセットか、資源の尽きたソーシャルゲーム、というのが浩太郎の認識だった。
「起きたぞ。ごはんをよこせ?」
 唯一変わったことがあるとすれば、ごはん時の妖怪との会話だった。ずうずうしいと感じながらも、猫を育てるような楽しみを浩太郎は感じていた。
日々を重ね、妖怪と夕食を囲むうちに、クリスマスの時期になった。
 小指落しもクリスマスの事情は把握しているようだった。
「これは夜伽をするゲームなのか?」
 小指落しは猥雑な単語を用いて浩太郎の心情を煽る。
「これは美少女ゲームという」
「お前自身は夜伽をしないのか?」
「現実に引き戻さないでくれよ」
「何故だ? 生物として自然なことではないか」
 小指落しのいうことはもっともだったが、浩太郎にとっては、彼の言葉のひとつひとつが凶器だった。心の急所を的確に射抜かれ殻を破壊され、ナイーブな核がむき出しになっていった。
 やがて浩太郎は小指落しに付き合っているうちに、現実逃避による回復が間に合わなくなり、現実に対して、憎しみを募らせるようになる。
 12月になり本格的なクリスマスシーズンがやってくると、いよいよ浩太郎は「ああ憎い」と呪詛のように呟いた。
「憎いか」小指落としがいった。
「ああ」「誰が憎い」「幸せなぁ……人間」「何故憎い」「俺がぁ……家からでられないのに皆は楽しそうにしているぅ……」「何が原因だ」「わから……ないぃ」「考え向き合おうとは思わないのか」「それも、わからないぃ……」
 妖怪は沈む青年を眺めてため息をつく。
 
 
「お前の不幸は必然だ」
「そんなことはない。人生のあらゆる契機で努力してきたつもりではいた。だがそのたびになんらかの精神的な事情でだめになる。お前だって運が悪いって言っていたじゃないか」
「お前のその腐りかけた心根は運ではないだろう」
妖怪は浩太郎が見まいとしてきた様々な事実をつきつけた。
「しかしメカニズムで説明できることもある」
「どんな?」
「例えばお前が努力をしたと思いこむ。しかし他人は口先ではがんばっていないことをいい、お前の素の力に対して威圧をかけてくる」
「それは、勉強してないよ問題か?」
 勉強していないよ問題とは、ある人間が勉強せずに勉強ができることをアピールすることで、自分の器の大きさを暗黙のうちに他者に知らしめるという恐ろしいものである。 自分は努力をしていないのにできることをアピールする威圧行為だが、これに呑まれる人間は少なくない。
 浩太郎もまた何度もその策略に嵌っては、苦い思いを積み重ねていた。
 小指落しはヒエラルキーの問題に対して滔々とした指摘をする。
「人間の事情は知らんが、あらゆる概念に付随する、相対性の問題だ」
 相対性の問題。浩太郎はその言葉について漠然としたニュアンスでとらえるばかりだったが、
 その甘美な響きに、他者の不信によって閉ざされた心が開きつつあった。
【相対性】という言葉の意味をかみ締める。
 ようは捉え方の問題であり、言葉と精神の問題だということである。
 幸せな人間が不幸になれば自分は相対的に幸福になれる気がした。
 それはすなはち、妖怪が他人の幸福を吸い取れば成し得ることだった。
「そういうわけで浩太郎君。僕の運を吸い取る仕事を手伝ってくれまいか?」
「引き受けよう」
 浩太郎は決意の眼差しを妖怪に向けた。
 妖怪はにやりとほくそ笑みながら、ありがとう、と礼をのべる。
「ところで一つ聞きたいのだが、お前は何故小指なんだ・」
「運命の糸は小指にあるだろう。運を操作するか小指」
「そういうものなのか」
「そういうものさ」
 小指落しは折りたたんでいた耳をぴょこんと起き上がらせ、ふにふにと動かした。
 この日から浩太郎は小指落としの手伝いとして、他人の運を吸い取るべく、まったくのやましさから外にでるようになる。
 
 
 ひさしぶりに訪れた大学の構内は冬の寒気とは裏腹に人々のざわめきで満ちていた。。 構内はクリスマスが近いせいか、イルミネーションが飾られ、柔らかな空気がたちこめる。
 その中で居心地の悪さを感じている若者がいた。一ッ谷浩太郎である。
 何を意図したのか彼は松葉杖をついていた。カツコツとぎこちない手つきで、あめんぼのように歩行している。傍らに知りあい一人いない構内で松葉杖をつくことはいささか恥ずかしい行為ではあった。怪我をしたものが感じる、少し浮いているという感覚である。
 しかし実のところ彼は人からの孤立よりも、彼は別の恥じらいに耐えている。
 つまり彼は一切の怪我をしていないのである。
 怪我をしていないくせに松葉杖をついていたのだ。
 全国の怪我人に失礼だと内心で思う。しかし松葉杖をつかねばならない確固とした理由が彼にはある。
 小指落としが言うには、運命の糸には張力があるらしい。人の運命の絡み合いには心理が作用するが、心理と物理は密接に繋がっているという。
 人同士の距離はひっついたり離れたりすることで安寧が保たれている。
 しかし、予期せぬ事態で距離が離れたりすれば、運命係数に作用しその人間同士の幸福の総量が減るのだという。
「松葉杖をついて、仲睦まじいカップルの間に割り込むだけでいい」
アパートの一室で小指落としはそのように説明していた。
「繋いだ手と手が離れるだけでも、運命の係数に影響する」
浩太郎には小指落としの言う【係数】がなんなのかは理解不能であったが、フィーリングで察する。
「地震が起きたとき、妻を鑑みずに外に飛び出した夫が、その絆を責められるようなものなのだな」
 浩太郎は言った。
「あたりまえすぎる例えだが、間違いではない」
「ではその減少量を数値化するとどうなるのだ」
「数値などというものさしに頼ることはぼくは潔しとしない。だが強いて言うならば大海に目薬を落とすようなものだ」
「海に目薬。ほとんど無じゃねえか」
「そうでもないさ。大河の一滴。バタフライ・エフェクト……」
小指落としは少しも動じることなく言い切る。
「異国の蝶のはばたきは嵐にだってなりえるんだ」
 ひとりと一匹は校内に繰り出していく。

 
彼の頭頂部には小指落としが座っている。不思議と重さは感じられず、異様な存在感ばかり漂っている。周囲の人々は妖怪の存在に気づいていないようで、ただ談笑をして往来するばかりである。
 だがその談笑こそがうすら寒さを引き起こし、引きこもりである自分が笑われている錯覚に陥る。長い間の隠遁生活は彼自身も予期せぬところで感情の抑制回路を錆びつかせ、謎の引き金を引かせた。
 二単位しかとっていないのだ、バイトさえもしていないのだ。
 世界の様相が歪み、周囲の人々の立つ地面が高くせりあがっているようにさえ思えた。
 自分はくぼんだ場所にいてせりあがった場面から見下ろされている。
 談笑などの声は洪水となって、窪地に流れ込み呼吸を妨げる。
「気を確かにもて」小指落しが言った。
「お前が動いてくれなければ効率よい生業にならない」
妖怪の声は建物の中に反響せず、彼の耳元にのみ響いている。ヘッドフォンをしている感覚に近い。雑音の中でも鮮明に聞こえているのが不思議と心強い。
 なれない松葉杖をつき歩み続ける。
 人の波が幾度となく浩太郎と擦れ違ってゆく。
 涙がでそうになるのをこらえきれずに瞼が滲んだ。
 だが松葉杖をついているためふき取ることができない。
 どのように振る舞えばそれっぽく見えるのか人の目線を気にしてしまう。
 トイレに逃げ込もう、と方向転換したとき頬になにか奇妙な感触が触れた。皺の刻まれた肢のようだった。感触は瞼の水分を拭き取っていた。
「雨の滴くらいならふいてやる」
 浩太郎はどうしてこのちんちくりんな妖怪は無駄にかっこいいのだろう、とめまぐるしい意識の中で思った。
「外にでただけで泣くなんて。恥ずかしくて、どうすればよいかわからない」
「どんなことでも動きさえすれば成したことになる。小さなプライドを重ねていると思え。お前は外に向かった。それでいいじゃないか」
「……やってみる」
構内の玄関口に差し掛かったところで、浩太郎は前方から談笑しながら向かってくる男女を見た。
 間延びした言語を放ちながら手を繋いで歩いている。
 浩太郎は意を決して間に割り込んだ。松葉杖をついているので、急激な方向転換はできないですよ、という雰囲気を醸した。
 ちょうどぶつかりそうな距離まで狭まり、その男女は浩太郎と対峙するように足を止めた。
 女のほうは男と手を繋いだまま浩太郎の脇を通りぬけようとしているようであった。 しかし男のほうが絡めた指をほどいて浩太郎に道を譲った。
 繋がれていた指同士がほどけて、離れた者同士の間を浩太郎が松葉杖をついて通り抜けた。
 妖怪が、肩口でゲラゲラ微笑んでいた。
 蛇腹のように蠢く手先で彼らの周辺から【何か】を絡めとった。
 それは【糸】のように見えたが、妖怪の手に触れるや、みるみるどす黒い色に染まり、やがて空気中に溶けた。
 小指落としはどす黒くなった糸から手を話し、カップルの男女それぞれに返した。
 その【糸のような何か】について小指落としは語ろうとしなかったが【運命係数】に関わるものに違いなかった。
 気に留めず浩太郎は松葉杖をつき続けた。細腕を疲れさせながらも本気で体重を杖に乗せる。
【手を繋いでいるもの】【猥褻なじゃれあいをしているもの】【清楚な関係を装っているもの】【皆仲良しと群れているものども】【サークルクラッシャーと愉快な仲間たち】などの【仲睦まじきすべての大学人類】の間を松葉杖で通り抜け、ささやかに引き裂いていった。
あんまりうろちょろしていると怪我をしていないと疑われるかもしれぬと思い、なるべく時間をおいて、同じところを行き来しないように努めた。
 

 大学の一号館を抜けたら二号館に行き三号館にわたる。なるべく同じ人に出くわさないように配慮しながら歩く。
 小指落としが言うには、その日はそこそこの収穫だったらしく、構内を三週したところで家に帰ることになった。
「この調子でいけば後二週間ほどでお前はどん底からひどく残念な人に昇格される」
「昇格しても変わらないのか」
「お前は自分の心をやすやすと変えられるものだと思っているのか?」
「変化は少しずつ」
「そういうことだ」
 会話するものを得てから浩太郎は以前よりも少しだけまともな思考を行うようになった。誰かと会話をしていると、一人でいるときの【無理、無駄】などの暗い感情に行きつかないようだった。
 相手が妖怪であれ、他者へ声を投げかけるのは相手の意志や言葉と脈絡との連絡を取らなければならない。妖怪に促された先が暗黒であれ、自分の変化自体は心地よいことであった。
 浩太郎は妖怪に言いくるめられながらも、自分の変化を楽しみ始めていた。
 

 
 
 次の日もその次の日も浩太郎は松葉杖をついて歩いた。
 小指落としは構内の見知らぬ人間の運気の糸を絡めとりドス黒く染めてから空に溶かした。
 浩太郎は自分の慣れについてひどく恐ろしいものを感じていた。一週間がたち、一〇日目に差し掛かろうとすると、もう松葉杖をつくことが日常のように思えていた。
 そのうち人ごみに対する恐怖心も消えかけ、小指落しが【糸】を空に返す作業に純粋な喜びを覚えるようになった。
 やがて12月が過ぎ去り、世をにぎわす【二四日】が訪れる。
 その日は大学の最後の授業があった。世の動きにへつらうことなく授業をするなんてと始めは感心していたがいざ大学へ出ると、クリスマスに起こりえる男女の行いが透けて見えてしまい、ますます心が荒む結果となった。それで同時にカップルの間を引き裂く確率も増えることでもあった。
浩太郎はいつもより余計に人目もはばからず松葉杖をつき、二の腕が疲れるまで歩き通した。
 歩くことは脳の分泌を促すのか、浩太郎は様々なことを考えさせられた。
 これはこれで新たな人間本性の発見につながるやもしれない。不毛な事とはいえ他人が不幸になってゆく様は病み付きにもなる。にやにやと笑いさえ込み上げてくる。だが自分の脳味噌が他人を陥れて喜ぶほど、単純ではないこともわかっている。 
 陰湿な行為は、その場の陰鬱さは解決できても、根本的な改善にはならない。
 自らのたてる、かつこつ、という音を聞くたびに、頭の中の感情のスイッチが順々に押されてゆくような気持ちになった。三十六色の感情のスイッチが酸いも甘いも入り乱れて入っていくようであった。
 トランス状態とも言えるかもしれない。
 いやがらせの快楽と虚しさの間を行き来するうちに、やがて縮図だということに思い至るのだった。
 
 
―――俺は怪我をしている。自分の足で歩くことができないから、両腕を使ってまでちっぽけな自分を支えている。他人と繋ぐべき手が残っていないのだ。しかし、動かない足を直す術がまるでわからないでいる。そんなだからペットボトルロケット自転車などという推力の怪しいものをつくる。こうして大学の中をぐるぐると廻ってテストにもでず単位も取れず留年を繰り返すのだろうか―――。
小指落としに協力することは、計らずも、自分を外側から見つめなおす結果となっていた。
 なれない松葉杖で構内を歩くことは誰一人たたえることない孤独な行軍であった。
だが幸福の係数を変える、という妖怪の言葉を信じて松葉杖をつき続けて、その果てに何があるのだろう。
 多少運がよくなったところで、自分が変わらねば意味がない。
 すべては体を動かすことと繋がっている。松葉杖をつくことで、今まで行き場のなかった感情が何かの醸成をしたことは間違いない。松葉杖を用いて鈍い前進を行うことで心がひるまなくなっている。
 少なくとも、一歩踏み出すことを、今の自分は知っている。
 いつもならば悩まされていた【無理、無駄】などの思考回路も、今は思考ではなく歩くことを優先するべきだ、と結論ができる。
 つまり内面の筋力。
 今なら一年間の引きこもり期間に意味が見出せそうな気さえしている。
 浩太郎はかつて浪費した日々から生まれたものを思い出す。
たしかにペットボトルロケット自転車とは用途が不明な産物である。しかしそれは自分の覚悟の量が足りなかったから、中途半端なものになったにすぎない。自分の理科知識の限界や、外にでなければいけないという義務感が、自転車に現れたにすぎない。
すぎない、が。パッションなのだ。意味はなくとも、パッションなのだ。
 
 
 パッションであって、何が悪い。
 図らずも妖怪の示す道を歩いた経験が、浩太郎の精神に栄養を与え、芽を伸ばそうとしていた。
 成人を間近に控えて彼は、開き直るということを覚え始めていたのだった。
「小指落し」
 浩太郎は呼びかけた。返事がないので、勝手に言葉を連ねることにした。
「俺は青春を謳歌している者の間を歩くことで、少しだけ生きることの耐性を得た気がする」
 前髪のあたりに何かがはらりと落ちた。雪だった。この土地ではめずらしいことではない。
「世界は怖いものだと思っていた。だが松葉杖をついてわかった。俺と同じことをできる人間がここにはいない。それは唯一、俺だけができることで、俺だけができることは、俺がやらねばならない。この時間、この場所で、俺が行っていることは、唯一なんだ。意味はなくとも。誰に何を言われようとも。人間はそれだけで唯一なんだよ」
 妖怪は応えない。
「今なら、回り道をしながら何かができる気がする。そうすればお前に寿司を食わせてやることもできるかもしれない」
「それは旨そうだな」
「寿司を好きそうな顔をしているからな」
「だが……」
 小指落しはは億劫そうに、言葉を途切れさせる。
「歯切れがわるいな。らしくない」
「そろそろお腹がいっぱいでね」
 浩太郎は訝しむ。何を食べてもすぐに空腹を訴える妖怪が、何も食わないで満腹を訴えるのはめずらしい。
「小指落し……?」
 もう一度肩へ呼びかける。返事はなかった。首をひねって見渡すが姿がみえない。どこかへ行ってしまったようだった。何も言わずに去るのは不可解だった。
人のいるところに出向き運気の糸を絡めているのかも知れない。
 浩太郎はそうプラスに考える。
 プラスに考える事それ自体が、小指落しの忌避するものであることに、今の彼はまだ気づいていない。
 

 夕方も過ぎて、食堂などの談話場も人気が散り始めていた。松葉杖をつき、まばらな人の流れを裂きながら、浩太郎は小指落しを探しに中庭に向かった。
中庭の真ん中で巫女服の女性が佇んでいる。
 巫女服の女性。夢にでてきた人。
 名前をはっきり覚えている。
 三葉結衣子。同じクラスだった女の子。
 長い睫に長い背中ほどの黒髪。主張の少ないつぶらな瞳。控えめだが可愛い口元。
 そして基礎語学の二単位。
 最初の会話。
(この授業、バーコードじゃなくて、肉筆で出席とるんだねえ。私も出席できないタイプだから。出席番号控えてあげるよ)
 今のプラス思考になった浩太郎は頭のもやが晴れている。
 だから電撃のように思い出す。
「ぁ、ぁ……ぁの」
 距離にして五メートル。
 浩太郎は届くか届かないかの大きさで声をかける。
 しかし声は届かない。
 三葉さんはぷいと遠くへ向かって去ってしまう。
 気づいていたのだろうか?
 あるいは無視をされたのかもしれない。
 悪い意味で考えることがコミュニケーションの不全だと、頭ではわかっている。
 だが、まあ、身体は動かない。
(小指落しっていうの)
 そうだ。妖怪について教えて貰ったのも、この子からだった。ベランダの植木鉢の伝説もだ。かつて自分はこの子と話をしていた。
 

 大きな声で話しかけるんだ。
 息を大きく吸って……。
 しかし、声がでない。
 外にでることはできても、人に話し掛ける方法は思い出せないままだ。
 手をこまねいている間に三葉結衣子は疾風のように駆けだした。
「え?」
 一瞬、嫌われて、逃げられたのではと思った。
 すぐに自分のネガティブを振り払う。物事は事実を重視してみるべきだ。浩太郎は以前よりも心が強くなっている。冷静に判断を始める。
 話し掛けられなかった後悔はある。だがそれ以上に大きな疑問がもたげてくる。
何故、三葉結衣子は走り出したのか。
 そもそも巫女服を着ているのは、どんな理由があるのだろう?
 疑問が解けないまま、浩太郎は立ち尽くしている。
 

 結晶の大きなぼたん雪が、ぽとぽと降り、地面にうっすらとした絨毯を形成していた。水気ですべりそうになるも松葉杖の扱いに慣れていたため、転ぶことはなくなっていた。ここまで松葉杖が熟達するほど、妖怪との時間を過ごしたのだなと考えた。
 おおきな粒の雪が頬にくっついた。浩太郎は小さな奇妙な妖怪が、頭に乗ってきてその雪を払ってくれるのを待った。
校内から人気が消え夜の帳が覆い尽くした。空に溶けた白い膜が欠片になり、地面に降り積もった。
しばらくの間、浩太郎は松葉杖を脇に差し込んで、体をささえたまま、空が砂時計の形に裏返り、白い絨毯を編み込んでいく光景を想像した。
 やがて冷えてきたので首を振って雪を払い、鼻を啜りながら、松葉杖を持ち直す。
 杖は重く、片手に一つづつしか持てなかった。構内には人一人いなくなってしまっている。もう松葉杖をつくフリをしても仕方がない。
手が塞がってしまうのも不便なので、自分の足でそのまま歩くことにする。踏み出すと足が柔らかい地面を捉えた。
 部屋に戻ったらもう一度植木鉢の世話をするのもいいかもしれない。

第三話

 
 
 小指落しがいなくなって一日が経った。一日いないだけで、小指落しという存在がどこか夢のようにさえ思えていた。
 もしかしたら、と浩太郎は考える。
 小指落しは駄目な人間のもとに現れる。彼の役目は人類に分布される運の平準化だ。 浩太郎が運のない日々を繰り返し、引きこもり、負のスパイラルに陥ったから現れた。
 だが今の浩太郎はどうだろう。ここ数日は松葉杖をつきあくまで物理的にカップルの仲を引き裂いてやった。良心の呵責を持ちながら、孤独に物事を遂行していった。やがては自分の精神力の強さに気づき、前向きに生きていく気分になった。
 それこそが小指落しを遠ざけたのではないか?
 だとすれば日和っている。
 下手に真面目に生きるのは日和っている。
 自分が堕落しているのはもとはといえば、正統性があったはずなのだ。現実がうまくいかないから、引きこもり、グレるしかないのだ!
 駄目になる一歩目はいつだって意地があったからだ。曲げてはいけないものを曲げまいとして、結果的に堕落したにすぎないのだ。
 鬱屈した青年がふとした瞬間に抱く前向きな気持ちは一瞬の蜻蛉である。
 根が鬱屈しているのだから、たまの前向きな気持ちとは、食後のデザートのようなものなのだった。
 青年とは一瞬の蜻蛉を積み重ねて成熟に至ったり、至れなかったりする。
 このときの浩太郎もまさに天秤を揺らす青年そのものだった。
 一瞬の蜻蛉として前向きになり、然るべくして元に戻った。
 つまり駄目人間であることを辞さない状態に戻った。前向きな気持ちは一日と続かなかったのである。
 
 
 彼独自の暗い信念を守り通すべく、夜通しスーパーファミコンを起動し子供の時に嵌ったゲームを大人のやり方で攻略することにした。そして現在……深夜の三時まで、大学受験までに培った思考回路で、昔のゲームをプレイしつくしている。
 こうしていればあいつはひょっこり帰ってくるような気もする。だから安心して、オアシスに身を沈めるように駄目になっていたほうがいい。
「……小指落しがいれば。あのやるせない自然現象に触れていなければ、俺は前には進めない。だからあいつがいないのなら、俺はとことん駄目人間になってやる!」
 クリスマスの日、学校の中庭で決意したのが嘘のごとく、コミュニケーションの必要のないレトロゲームをプレイし続け、それに飽きたらパソコンで美少女ゲームを起動し時間を潰す。
 そして胸中では妖怪へまっすぐな他力本願を向けている。
 青年の前向きとはかくも儚いものなのだった。スイッチを入れるには、ときに外部の刺激が必要になる。何にしても、外に向かわねばならないのだ。わかっていても内側に向かってしまうから苦しむのだ。
「ふざけるんじゃねえぞ……。あれだけ意味深なことをいって、勝手にいなくなるなんて許さないからな。ちょっと俺が前向きになったからって、黙って去るなんてこと、していいわけがないんだからな。今にみてろよ。妖怪もびっくりするくらいの腐臭を放ってやるんだ……」
 強い意志を込めて浩太郎はレトロゲームの攻略にかかった。深夜のコンビニに出かけ、スナック菓子と甘いジュースを買い込み、ぞんざいな食べ物と睡眠不足を重ね、ひたすらにゲームをやり続けた。マイナスの強い意志を、別の何かに使えば彼の人生は好転するかもしれなかったが、もはやマイナスであることがアイデンティテイになろうとさえしているのであった。
 瘴気を放ちながら、駄目大学生は今日も暗い部屋でひとり、まったく生産性の無い行為に勤しむのであった。
 
 
 同時刻。12月25日深夜三時。
 小指落しは傷を負っている。麓の街の路地裏のビルの隙間で、小指の妖怪は腕を抑え壁に背中を預けている。基本的に運気が落ち込んでいる人間にしか彼の姿は見えないため隠れる必要はないが、今の彼は恐れている。
 胸中には恐れ以上のわだかまりがある。
 ……まさかこの世界にまだあんな人間がいるとは。
 妖怪を滅却できる人間。
 退魔の巫女の血族。
「まずいことになったな……」
 片腕を抑え、足を引きずりながら、夜の街の狭間を忍びあるく。
 

 
 
 時は遡り、12月24日。雪が降りしきる、夕方四時二〇分前後。
 小指落しは、学校の中庭にいた巫女服の女性を察知しそっと浩太郎の元を離れた。
中庭から移動しうまく身を隠せればと思ったが、巫女服の女性は疾風の速さで駆け抜け、小指落しのもとへ近づいてくる。校舎を一周し、人気のない裏手にたどり着く。
 何故女は追ってくるのか。おそらくは索敵範囲に入ったためであろうか。
 女性の髪の毛が一本だけ逆立っている。古典的な感知方法だが侮れないものがある。
「見つけた……」
 呟くと同時に女はお札を放った。霊力を纏ったお札は、茫とした光を帯び、妖怪を滅せようと追尾をする。
 お札は小指落しの小指を膨らませたような頭部を掠め、校舎の壁に着弾し、茫とした光を放って爆ぜた。
 光の爆発は他の人間にはみえていない。赤外線や紫外線が人間の眼には関知できない光のスペクトルであるように、退魔の光もまた通常の人間の眼には映らない。科学的なスペクトルとは別の、霊的なスペクトルの光。ゆえに退魔の術と称されるのであった。
 校舎にはかすり傷ひとつ残らない。しかし小指落しにとっては致命的な攻撃であることがわかる。
 これはまずい。
 まともに喰らえば、浄化されてしまう。
 巫女服の女性は可愛い顔立ちを鬼の形相に歪めて、札を飛ばしてくる。
 小指落としが校舎の壁を一階から三階に斜めに駆け上ると、背後には退魔の札が次々に追尾飛来する。
 校舎の立体構造を利用した三次元的な回避によって、飛来する札を交わしていく。攻撃の第一波をいなし、小指落しは三階部分の窓際のへり(縁)から、巫女服の女を見下ろす。
 
 
 女は息を大きく呼吸をしている。気温の低さから、白い息を吐いている。胸郭が膨らんでいることから力を蓄えているのだろう。大きく息を吐きだし、強い視線を小指落しに向ける。
 憎しみを湛えた瞳。
 なんだかわからないのだが、なんだかわからないままに、怒髪天をつく勢いで怒っていたのだった。
「絶対滅する!」
 物騒な言葉に、小指落しは困惑をした。
 その一瞬の隙を見咎めたのか、女は札を大ぶりに投擲する。
 物理的にありえない鋭利さと速さで札は妖怪に向けて飛来する。
 小指落しはお札の光を受けて初めて、自分が焼かれていることに気づいた。感知できないほどの速さだった。およそお札とはかけ離れた、ナイフのような起動で放たれていた。
 霊的なあるいは念的なエネルギーをお札に纏わせているようだった。
 退魔の光の直撃を受け、小指落しはもんどりうった。自分の体が煙をあげているのがわかった。
 これ以上、攻撃をうけるのはまずい。だが、一定範囲内で索敵をされている以上、隠れても追尾されることは必定。
「できれば使いたくはなかったが……」
 小指落しは自らの腹に、蛇腹の関節の蠢く腕を差し入れる。
 腹は始めは反発し腕を押し戻していたが、やがてずぶずぶと表面を凹ませ、終いには腕を埋没させる。
「核はたしか、このあたりだったか……」
 小指落しは自らの身体の中心核を探り触れる。核は危機を察知し、小指落しの肉体に指令を与える。
 
 
 始めは半分の大きさで二体。
 四分の一で四体。やがて一六分の一に別れ、散り散りに逃げる。
 すなはち分裂による危機回避。
 いつの世も妖怪の世界は激しい戦いと共にある。乱世を生き抜くための妖怪の知恵であり特性であった。一匹の大きさは一〇センチに満たない。心もとないが核を持つ本体がやられない限り、死ぬことはない。
「分裂……しただと」
 女性は驚愕に眼を見開く。
「畜生! 待ちやがれ!」
 女性が鬼の形相でお札をまき散らした。伽藍とした校舎で、微かに残った学生が巫女服の女性に奇異の目を向けていた。社会的な死と引き換えに、なにゆえ彼女は小指落しを亡き者にしようとしていたのだろうか。
 本人にはわからない。
 わからないが、自分が死ぬ理由は、もちろんない。
「やれやれだ。せいぜい逃げさせてもらうとするか」
 かくして小指落としは三葉結衣子から逃走する。
 道中一匹が御札を食らってやられたが、小指落しの分裂体はどうにか街の路地裏で落合い、再び一つの構成体として顕現した。
 夜の路地裏で少しだけ小さくなった体を引きずり、建物に隙間に入り込む。
「しかしあんな女がいるとはな。不安要素が増えてしまった。どうにかして〈運命率〉の還元を果たしたいのだが……」
 小指落しは今後の行く末を考える。
 ここ数日、浩太郎を利用して運気の拡散を続けてきた。
 蝶の羽ばたきが嵐になるとはいえ、それだけで運命の偏りが改善されるとは思えない。
「仕方ない。あれをやるしかないか……」
 小指落しは再び、自身の身体を一五に分ける。一体は滅却されてしまったが問題ない。
「僕一人の力だけでは今年の運命率は難しい。それなら、他の同族の力を借りればいい。幸いにも供物にするだけの〈運の糸〉は回収している」
 小指落しは意味深な言葉をつぶやき、同族を求めて街の各地に散っていく。
 彼の思惑がどこに着地しようとしているのか、誰一人として知るよしもなかった。
 おそらくは人間には理解不能。理解不能だからこそ、この世の裏側の底流として静かに、静かに流れているのだった。
 

 
 
 12月25日。
 三葉結衣子は巫女装束の姿で、人気のない大学の構内を歩いている。
 赤と白の袴姿に清廉とした黒髪が雪風になびく。
 霊気を宿した髪留めが、かたかたと微細にうち震える。風ではなく妖気に反応しての震えだった。
 巫女装束は神道の学べる学科なら奇異な恰好ではない。
 だが彼女の通う大学は地方都市にあり、神道の学科も存在しない。
 何故巫女装束を着ているか。
 それは彼女自身が生来霊力を湛える、物の怪が見えてしまう家系の生まれなためだった。
 彼女が巫女装束を着ているのは妖気に対抗するためだった。
 例えるなら気圧による神経痛。光化学スモッグ。ヘビーな喫煙室。PM2.5。
 その妖気の防御として実家の装束を引っ張り出してきた。
 恥ずかしい事この上ないが、妖気にあてられてしまえばこちらの身が持たない。巫女装束を着ることは結衣子にとって切実な問題だったのだ。
(浮いてしまうことは解っている。だが、こうするしか他に手はなかったんだ……)
 巫女の傍系のいとこのひ孫、というのが結衣子の実情だった。
 血筋も途絶えているため、妖気だのなんだのは仕事にはできない。
 現代の文明化のあおりを受け、巫女としての役割は消えゆく定めにあったのだ。
 だから結衣子が妖怪を感知し干渉できるのは極めて特殊なケースといえるだろう。
 大学を巫女装束で歩き小指落としを探している。
 恥じらいを禁じ得ないが、小指落しが見えてしまった以上、駆逐しなければ、とも思う。
 
 
 小指落しは本来は幸福の度合いを操作する妖怪だ。
 妖怪にしてはいまいち曖昧な属性だが、曖昧ゆえに現代まで生き残ってきたといえる。 火を噴くとか、水に棲むなどの、眼に見える妖怪は軒並み文明の進出で駆逐されてしまったが、形而上(眼に見えないもの)の力を持つ妖怪は裏の世界で脈々と息づいているのが現代の妖怪事情である。
 その小指落しを何故、駆逐しなければいけないのか。
 小指落しの数、濃度によっては世界の中の〈運〉と呼ばれるものが根こそぎなくなってしまう恐れがあるためだ。
 小指落しの文献に書かれている【羽化】や【リセット】と呼ばれている現象である。
 その現象は小指落しが成体になったときに起こり【その妖怪が管轄する街の幸福の度合いがゼロになる】という効力を発揮する。
 すべてのプラスを平坦にすることによって、相対性が無くなってしまうのである。
 一見すると大したことのない現象。
 しかし幸福度80の人が、不幸にみまわれたらどうなるか?
 わかりやすくいえば80M上昇した人間が、一気に落下するようなものだ。
 幸福な人間が不幸のどん底に落ちれば、精神は激しいダメージをうける。
 果実が落下するごとく、多くの人が精神を崩壊させる可能性、大。
 人間の関与することのない異次元的なものだ。異次元的ゆえに問題は外面化せず、人間の意識では太刀打ちできない。
 無抵抗で知らないうちに殴られ続けるようなもの、といえばわかりやすいだろうか。
【気づいた時には死んでいた】という事態さえ起こりかねない。これが街の規模で各人に降り注いだらどうなるか……。災害級の不運が重なり、理解不能な事故が立て続けにおこることになる。
 一見地味なようで、小指落しの能力は街一つ破壊するだけの力を秘めているのだ。
 だから、たとえ誰にも理解されないとしても闘わねばならない。
 結衣子は巫女装束の帯を引き締め、闘いの決意に燃えている。
 すべてはこの日のために、準備していたのだから……。
 結衣子は12月25日までの、一年の日々を想う。
 
 
 4月の終り。一人の男子に、小指落しの伝承を話す機会があった。一年生のクラス授業で同じ班で集まっているときのことだった。
「小指落としって知ってる?」
 わかるわけがないのに、つい尋ねてしまった。一般的に知られていない妖怪だったから、そのときは伝承の類として冗談のつもりで話をした。
 結衣子にとってはまったく冗談じゃない話なのだが、多少なりとも誰かに聞いてもらいたかったのだ。
 男子の名前は一ッ谷浩太郎。
 眼鏡をかけた、うだつの上がらない容姿をしていたのが印象的だった。
 うだつのあがらないといえば、結衣子もまた、がんばっても化粧などをしても芋臭くなってしまう性質だったので、人の事はいえない。うだつや芋臭さはともかく。
 そのとき浩太郎は小指落しのことについて親身に聞いてくれた。
 聞いてくれたことが結衣子には嬉しかった。
 だから基礎語学の授業で隣になったとき、結衣子はつい承諾してしまった。
「この授業、カードリーダーじゃないんだ。誰かが番号書けば、ごまかせるな」
「じゃあ君が休んだら、私やってあげようか?」
「なんでまだ。そこまでされる義理はないよ」
「いいんだよ。私も授業、出る自信ないから。がんばれる理由みたいなのがあったほうがいいんだ」
「そこまでいうならわかったよ。俺も出るようにがんばるから。そうすれば借りはつくらないで済む」
 授業にでることは大学生にとっては常識のはずだったが、何故かこの二人は大学生活が始まった四月早々から、出席をできる自信がなかった。
 五月辺りから一ツ谷の姿がみえなくなり、同時に小指落しの気配を感じるようになった。妖気で寒気がして、学校にいられなくなっていった。
 無理をして居続けると吐き気がして歩くのもままならないほどだった。
 妖気で体調を崩したのだから仕方ないよね……と、自分に言い聞かせたが、世間的に妖気の存在は認められない。
 結衣子は潜在的に、自分がこの世界に理解されないことを嘆き、だんだんと内側に籠る様になっていく。
 気づけばほとんどの授業の出席を逃すことになり、最後には基礎語学の二単位だけが彼女の元に残った。
 
 
(あんちくしょう。フェードアウトしやがって……しょうがない奴だ……)
 妖気を感じ内に籠る性分だったが、義理堅い人柄だった。
 義理堅くはあっても、自分を陥れる妖気を許せるわけがない。
 結衣子は引きこもり期間を利用し、小指落しの研究に勤しみ、闘う術を身に着けた。約半年の修行を経て、昨日から妖怪退治へと赴いたのだった。
「鮮血のクリスマス……」
 そう彼女は心の中で呼び、生まれ変わる記念日にするのだと意気込んでいた。
(小指落しを滅却し、来年度こそはちゃんと出席をするんだ)
 そして今日、冬休みの始まった12月25日のこと。
 結衣子は人気内校舎を見渡して、途方もない気持ちになる。
「増えてるし……」
 先日の分裂とは異なる、明らかな等身大の小指落しが、増殖していたのである。
 大学の門に一匹。冬だというのに噴水の上で水浴びをしているものが一匹。園芸部の花壇にまた一匹。一望しただけで三匹もいるのだから、大学全土では相当な数になるだろう。
 それらは一様に人間の小指を切り取って、赤ん坊大に膨らませた容姿をしている。
「それでも……闘わなきゃ未来はない!」
 マジックシールドとしての、巫女服をたなびかせ、結衣子は小指落しの群れの中へ向かっていく。
 

 

 結衣子が闘った次の日。12月26日。浩太郎は午後3時に起きた。ゲームのやりすぎて時間感覚がおかしくなっていたためだった。コンビニに向かい、菓子パンを買ったところで、やはりこのままでは駄目だ、という思いに駆られる。
なんだかんだで、ずうっとゲームばかりすると、いよいよ大事なものが消えてなくなってしまいそうになるので、ふと思い出したように別のことをしなければ、という気持ちになるのだった。
 コンビニのパンを細々と食べ、過去に作った【作品】の点検をする。
 ペットボトルロケット自転車の内圧をはかり、加速器と射出装置の点検も行う。射出装置とはその名のとおりペットボトルを射出する装置である。これがあれば、走行しながら、ペットボトルの遠距離射撃が可能になるのだ。遠距離射撃が何の役に立つかはわからなかったが、攻撃手段を蓄えるに越したことはない。
 攻撃手段……。しかし自分はいったい何と闘っているのだろう。
 理系でもなく技術者でもない。趣味で造っただけの不恰好な自転車が生まれただけだ。複雑な計算や数学ができるわけでもなく、デザイン的な趣向があるわけでもない。
 まったく社会的に無意味な遊びでしかない。
 頭でわかっていても辞めることができない。
 この作業を手放してしまったら、いよいよ自分は終わってしまうような気がする。
 何ものでもなく、社交性が人並み以下で、一年以上引きこもっている自分のような人間が最後に見出した心のよりどころが、この不恰好な改造自転車だった。
 銀色のフレーム。
 その脇に小学校の科学に使うペットボトルロケットをただつけただけ……。
 わかってはいたが、改めてみるに、なんの生産性もない!
 涙がでそうになった。徹夜続きでおぼろげな頭で、自分のふがいなさに泣きそうになった。小指落しが帰ってきたのは、そんな昼下がりだった。
 

 部屋で菓子パンを食べて横になっていると、玄関のポストに何かが落とされる音がした。
 粘性のスライムのような水気ある気配。ほどなくして郵便受けから小指落しがぬるりと這い出てくる。
「お前……どうしたんだ、それは」
 二日ぶりの再会だったが、小指落しは身体から湯気をあげて悶えていた。湯気は彼の身体が溶けていることを意味しているようだった。ポストから入ってきたのは生来の柔らかさによるものなのか、それとも全体の質量が損なわれているためなのか。
「手当は……どうすればいい」
「オ……オロナイン軟膏を塗ってくれ」
 浩太郎は不安に思った。彼の傷は霊気や瘴気の類によるものにしか見えなかったためだ。だが霊傷に何が効くかもわからないので、ひとまずはオロナイン軟膏を塗りたくる。
 湯気を立てていた傷が引き、炎症が治まる。
「俺のことは、もう見限ったのかと思った。だからほとんどの時間をゲームして過ごしていたんだ。駄目になれば、戻ってくるかと思っていたんだ」
「どうしようもない奴だな。馬鹿じゃないのか?」
 いつもの辛辣な口調が懐かしくて、浩太郎は笑った。
「何があった?」
「妖怪がいるならば、それを退治する存在もいる。つまりは、そういうことだ」
 先日、一人の巫女と思しき女性によって、小指落しの大粛清が行われたと小指落としは言った。
「大粛清、というからには小指落しはたくさんいるってことか?」
「人口に対し30:1の割合で存在するはずだ。ほとんどの個体は植木鉢の中や影の部分で眠りについているが」
 小指落しは、あえて大事な部分をぼかすことにした。眠りについているのは本当だ。 だが、先日自分が多くの同胞を目覚めさせたことについては、伝えなかった。
「この街は人口30万人だから10000もの小指落しがいるというのか……」
 多いのか少ないのかは、よくわからない。【幸福】という曖昧な概念を扱う妖怪なのだから、よくよく考えれば、これくらいの数が必要なのかもしれない。
 

「お前に話す気はなかったが」
 そうして小指落しは、妖怪としての種族の役割を滔々と語り始めた。
 小指落しの存在が、この世の理不尽の平均化に貢献しているということ。
 絶滅してしまえば、いよいよこの街そのものが、理不尽という概念に飲みこまれ負の偏りに見舞われてしまう事。
「もう少しだけ、幸福を吸い取り再分配する必要がある。手伝ってくれるか」
「わかった……」
 浩太郎は即答した。彼が帰ってきてくれただけで嬉しかった。もう二度と傷つけたくない、と思っていた。できるなら守ってやりたいとも。彼は典型的なダメ学生だったが、少ないながらも男らしさを蓄えていたのである。
「問題は、あの女だな……」
「ん、何かいったか?」
「いや……なんでもないよ」
 小指落しは三葉結衣子のことを考える。クレイジーな退魔の力を放ったが、問題はそこではない。小指落しは彼女について【浩太郎とは逆の意味で運気に障る】と考えている。浩太郎は極めて運気のない体質ゆえに、小指落しが惹きつけられたわけだが。
 三葉結衣子の場合は運気が上がりすぎている節がある。
 これは、ただ一人の人間の不運で済まされる問題ではないかもしれない。
 物事は繋がっている。小指落しは戦略の詰めにかかることにする。
 

 
 
 そのとき三葉結衣子は妖怪を滅却している。
「お前は確実に死ぬ」
「お前は確実に死ぬ」
「お前は確実に死ぬ」
 不吉な呪詛を唱えて、無数の、小指を人間の頭部ほどに膨らませた妖怪が、緑色の霧を噴出し迫ってくる。
 もちろん結衣子には妖怪の一連のセリフが「長年生きすぎたから無事に成仏できますように」という祈りからきたことなど、知る由もない。
「なんて物騒なセリフ!」
 やはり、害のある存在だった! としか思えなかった。結衣子は容赦なくお札を飛ばし、一匹、二匹、三匹と刈り取っていく。お札を張り付けられた妖怪は、ぼじゅうううと煮えたぎる音を鳴らし、お札に封印されていく。
「これならいけるかもしれない」
 半年間の独学は無駄じゃなかった。実家の宝物庫を漁り、古文書を読み漁り、お札を投げる練習をした。古文書は一部難しい箇所があって、すべては眼を通せずにいたが、戦闘に特化する部分を集中してやったのが功を奏したようだ。
 けれど……数点、疑問がある。
 こうも簡単に闘えているのは何故なのか。
 自分の強さではない。もっと攻撃を受けることも想定していたのに。
 まったく体力の疲れがみられないことも不思議だった。
 結衣子は生来頑丈なわけではない。鍛えたとはいえ、こんなに息が切れないのはおかしなことだ。
 原因はすぐにわかった。
 滅却するたびに自分の力が強くなっているのだ。
 理由まではわからない。
 小指落しをお札で封印することで、結衣子が強くなるのは何故なのか。
「細かいことは後で考えればいい。今は私に障る妖気が問題だ。私は妖気を、妖怪を倒して、来年こそはちゃんと出席をするんだ!」
 結衣子は疑問を振り払い、再びお札を放ってゆく。
「単位を取るんだ! サークルに出るんだ! 彼氏ほしい!」
 お札は然るべき軌道で適確に小指落しに吸い込まれていく。
 そういえば命中や回避は子供の頃から得意である。ドッジボールやソフトボールなどあてる感覚は優れていた。結衣子が投げたものは、文字通り吸い込まれるように相手に当たるのだった。
 まるで軌跡でも起きたみたいな命中精度で、投げたお札は妖怪を刈り取っていく。結衣子は自分の命中性を運動神経によるものだと信じている。それがいかに軌跡的な確率によるものか、結衣子はまだ気づけずにいる。
 
解 

 この時点で三葉結衣子は小指落しを駆逐することこそが、人類の幸福に繋がると考えている。
 対して、小指落しは、種族そのものが動くことによって、運の平均化をしなければ人類の運気は立ち行かなくなってしまうと考えている。
 ふたりの考えはどちらも正しい。
 小指落しは運を操る妖怪ではなく、正確には運を媒介にする妖怪。
 したがって小指落しが多くの人間から運を吸い取ったなら、小指落しを倒さねばならないというのも正しい。
 逆に人間が運を抱え込みすぎている場合は小指落しが運を払い、別の不運な人に分け与える。
 かつて小指落しが隆盛していた頃は、人と妖怪の間で運気のやり取りが行われていた。
 しかし今や人間が運気を眼に見えないものとみなしたため、こうしたバランスはすべて小指落しの種族が担っていた。
 小指落しは運を持ちすぎた人間に介入し、運気を吸い運のない人に還元する。
 必然、狙いをつけた【運を持ちすぎた人間】に妖気を向ける。
 抱え込む運気が多ければ多いほど、多くの妖気が向けられる。
 小指落としが狙いをつけたのは、運気を溜め込んだ人間。
 小指落としの目線では、運気があまりにも大きすぎて災害レベルになっている存在。
 それが三葉結衣子だった。
 つまるところ、運気を抱えすぎていたのは、三葉結衣子の側だったのである。
 

 浩太郎の元を担当していた小指落しは、12月24日の接触以来、彼女が運気を抱え過ぎていることを認識し、やがてその理由へと思い至っていた。
 この街の小指落しの同胞を目覚めさせ、時間稼ぎするように頼み込んでいた。
 目覚めた小指落し達は緑地公園の人気ない草陰に集まる。
 十数、二十数匹ほどがわらわらと相談を繰り広げていた。
「お札でやられても、うまく成仏できるだろうか?」
「何。あれだけの運気を溜めこんだ人間ならば、霊力もあがっているだろう。いい感じにお陀仏さぁ」
「いまさら僕らのような妖怪が、まさか死を恐れているわけではあるまい?」
「しかしまさかあの子が血族だったとはな」
「巫女の家系だから装束を持っているようだが」
「それだけではない」
「あの子自身がもしかしたら我々の妖気を敏感に感じ取っているのかもしれない」
「それで攻撃を?」
「だとしたら、まだいい。運気が飽和して、あの子が破裂してしまわないか、心配だ」
「それなら運気を抜くしかない」
「できるだろうか……」
「あの子は欲深な匂いは感じられない。ただ天然なだけだろう。天然で家系の血筋から運気を遺伝してしまった」
「だとすればおそらくお札を投げて当たるという物理法則を超えた現象を、自分の運動神経だと思っている節があるな」
「まったく人間は、若い奴は軒並み天然すぎる!」
「とりあえず決定だな」
「一ツ谷浩太郎を東、巫女服の女性を西とする」
「めざすは調和!」
「腕がなるぜ」
 小指落しの群れ達は、お札の直撃を受けることも辞さない覚悟を持っていた。彼ら妖怪は、運を平準化するという役目を果たすことがすべてで、命に関しては生物の域から逸脱していたのである。
 久しぶりの運気の祝祭が始まりつつある。この世の運を調整することが、小指落としたちにとっては消失さえも辞さない生きがいだったのだ。
「では皆。ごきげんよう」
「幸運を祈るよ」「グッドラック」「アリーヴェデルチ(さよならだ)!」
 草陰に残像を残し、二十数匹の小指落し達が散会を飛び去って行く。

 

第四話

 

 年を跨ぎ元旦の深夜。初詣の只中。除夜の鐘の鳴り終わった、0時過ぎ。
 人波のごった返す神社にて。
 一人の学生と一匹の妖怪がペットボトルのついた自転車に乗ってやってくる。
 お参りのためではない。周囲の人間から運気を回収するためであった。
 神社の周囲は、初もうでの人の列と屋台の灯りで賑わっている。
 妖怪と一緒に人の列に並びながら浩太郎は思う。
始め、小指落しが現れたのは自分に運気がないためであると考えていた。
だが12月24日、小指落しが離れた日を境に、事が自分一人の問題ではないことに薄らと気づき始めてもいた。小指落しは醸し出すばかりで何もいわないが、何かがおかしいことだけはわかる。
「首尾はどうなっている?」
「あの鈴のがらがらに運気回収の呪いをかけた。これでこの町の人間は、神社にお参りするごとに運気を得る、あるいは吸い取られることになる」
「【人死に】にはならないのだろうな」
「大丈夫だ。お前ひとり程度の働きでそんなことにはならない。だからこその運命係数だ。生物は連関している。生きているのが前提の運命だ。生きているなら、【少しずつ】【多くの場所】から【搾取する】が基本になる」
 それをきいて浩太郎は大いに安心した。
今回の呪いは大規模なゆえに不安が大きかったのだ。
「ところで小指落し。お前が帰ってきてから、気になっていたんだが。もう俺一人の問題では、ないのだろう?」
 不運な人間の運命を平均化させると彼はいった。
 なんて甘美な響きなのだろう、と始めは思った。
 24日の夜、松葉杖をつき、恋人の間を闊歩し、幸福な人間の運気をドレインしていったときは、とってもすがすがしい気持ちで、自分を見つめ直すことができたものだった。
 しかしいくらなんでも、小指落しが帰ってきてからの雰囲気をみていれば、何か大事なことが起きているのは察しがつく。
 
 
 耳もとで風切り音が走った。
 浩太郎の肩に乗っているものとは別の小指落しが飛翔している。
 一匹ではない。無数の小指落しが次々に飛び立っていく。
 空に舞う風船のように、幾重に連なってふわふわと、お参りの鐘へ向けて妖怪が集まっていく。
「これは?」
「〈羽化〉だ。この街の運を平均化するための、最後の儀式。小指落しがため込んだ運を音や風に乗せて波及させる」
 人の列の向こう。参列の鐘が鳴らされるごとに、小指落しが一匹、空に飛び立っていく。運のいい人からは少しだけ奪い、運の悪い人には分け与える。そういった催しがこの初詣の裏側で進行しているのだろう。
 ぼんやりと夜空を見上げている。運を背負った妖怪が飛行機雲のような淡い奇跡で夜空に舞っていく。
その軌跡がふと、途切れる。ふたつ、みっつ。流れ星の消失点のようにふっと闇に霧散する。消失点は神社の屋根のあたりだった。小さな音だったが、ぼじゅうううと何かが蒸発する音が風に乗って流れてくる。
「なんか霧になって消えてるみたいだけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫ではない。先日の特異点が現れたようだ」
「特異点? この間お前が消えたことと関係していることか?」
「お前の大学にべらぼうに運を蓄えた巫女服の女性がいた」
「巫女服……?」
 浩太郎は思い出していく。
 巫女服。基礎語学の二単位。小指落しの伝承を話してくれた本人。
 三葉結衣子。浩太郎の短い生涯において、高いウェイトで会話をしてくれた唯一の女性。
 
 
 思い出していく。引きこもりの要因。他の男に笑顔を向けていた。面(つら)の良く運動のできる男であった。浩太郎は憎しみに燃え【何かしかの存在にならなければ】と思うようになり、ペットボトルロケット自転車を作り上げた。
 しかし創り上げた時にはすでに前期授業は終わり、10月に差し掛かっていた。後期授業にでるきも起きず、他者から眼を背け独自の世界に埋没していった。何かしかの存在でなければ自分は外にでてはいけない存在だという思い込みがあった。
 冷静になって考えるに、女子が異性と社交するのはしごくまっとうなことだ。だが彼のさもしい心は直視に耐えられずに、無限の内向へと誘ったのだった。
「巫女服なら知っている。けれど何故? 彼女は妖怪なんか不必要なくらい、眩しい存在のように思える」
「未熟者め。お前が勝手に眩しいと思っているだけにすぎない可能性もある」
「何か、しっているのか。彼女について」
「人となりはしらない。ただ運気の歪さだけはわかる。運がよすぎるんだよ。物理法則を歪めるほどに。みていればわかる」
 小指落しが指し示すままに、神社の屋根をみていると、暗闇にまぎれて薄らとした人影が立ち現れた。
 ほのかに青い夜の空に真っ黒な影をつくっている。
 ひらひらとした巫女服の女性のシルエットだった。
 その女性に向けて、小指の妖怪が四方から飛来する。
 妖怪達は統制だった動きで女性へ頭を向けて突貫する。
 身を挺した体当たりであった。妖怪が体をぶつける衝撃で、運気の高い人間は吸い取られ、不運な人間は運を与えられる手はずになっていた。
 小指落しがいう運の平準化である。
「てやああ!」
 しかし小指落しは女性に触れる事さえ叶わない。躱されお札を張り付けられ、ぼじゅうううと音をたてて妖怪は霧散する。
 一連の流れによってすべからく妖怪は駆逐されていく。
「なんて強さだ……でたらめだ」
「これが運気の力だ。どこへいく? 浩太郎」
「止めに行く。なんだか彼女は危ういところがある」
「お前は臆病なのか勇敢なのかわからないな」
 小指おとしと浩太郎は、狂戦士の巫女と化した三葉のもとへと駆け出す。
 

 
 
 屋根の様子を見上げながら、浩太郎は走りだし、登れる場所を探した。
 神社の裏手に回り、止められている車を足掛かりに屋根瓦に手をかけた。急角度の屋根をよじ登り、再び一周して女性の元へ向かう。
 参列者の鐘の音と共に、一匹の小指落しが生まれる。その生まれた小指落しは屋根に上った巫女服の女性のもとへ向かい、彼女の運気を奪おうと突貫を試みる。巫女服の女性は息を切らすこともなく攻防を続ける。
「君は……」
 浩太郎が屋根の天辺にたどり着き、同じ目線に立つと、女性は般若の面をつけて闘っていた。
「三葉さん、なのか?」
 女性は般若の面をずらし、浩太郎に向き直る。
「久しぶり。学校はどう?」
「俺はずいぶん、引きこもっていて、しばらく行っていない」
「私もいってない。この妖怪のせいで寒気がひどくてたまらないから」
「なんとなく、把握したよ。でも君がこの妖怪と闘うのはよくないことのように思える」
「どうしてあなたが、知ったような口を聞くわけ? その足元の妖怪にたぶらかされているんじゃないの?」
 がらがらと鐘が鳴る。誰かの願い事が鐘に込められる。余剰分の運気を察知し、小指落しが掬い取る。平準化のために飛び去って行く。
「俺はおっそろしく運がない人間らしい。だからこの小指の妖怪が現れた」
「運を操る妖怪だもの。そいつのせいでこの街は不幸になろうとしている」
「不幸……。それは違う。こいつは俺のような不運な人間を救うために〈平準化〉をしようとしている」
「詭弁だわ。騙されているってのがわからないの?」
「騙されている?」
 浩太郎は一瞬躊躇った。たしかに妖怪ならば人間を騙すこともあるだろう。
 だが小指落しは下手な嘘をつく妖怪ではない。いやらしく詭弁を弄するが、意味のないことはしない。短い付き合いだったがわかる。
「小指落し。お前は、どうなんだ? 俺は騙しているようには思えないが」
 だから、正面から尋ねてみた。
 
 
「人間が、僕達と張り合っていた頃なら、運を奪うこともあった。だが今の僕たちの役割は運気の調整のみ」
「そんなこと……古文書には書いてなかった」
 結衣子は般若の面の角度を弄りながら、反論する。
「あんたらが無害なら、私が体調を悪くして学校に通えないでいたことの説明がつかない」
「それは君が運を持ちすぎていたからだ」
 小指落しは順々に語りだす。
「何故か? 理由は三葉の家系にある。君は自分の家系をどう思っている?」
「巫女の家系だわ。傍系で血は途絶えたと聞いている」
「なんのための巫女かまでは古文書とやらには書いていなかったのか?」
「それは……すべては読めなくて。小指落しの部分しか手が回らなかった」
「妖怪の間でも通っている話だが。三葉の家系は、生贄の家系だ」
 小指落しがさらりと告げた言葉に、結衣子は始め飲みこむことができずにいた。
「……は?」
「小指落しに対する生贄の家系だ。不運を吸い尽くし厄払いをするための生贄」
「不運……だから、私は寒気や怖気に苛まれていた?」
「それは違う。一連の君の寒気は、僕達小指落しの【運の吸収】を受けたものだ。だから怒ってしまうのも仕方ない。しかし小指落としが手をだしてしまうほどに、捕食君から運が滲みでているのも事実。樹液に群がるカブトムシのようなものなんだ。だが僕はあえて考えた。何故君がここまで運に塗れているのかと。だいたい70年ほど前にさかのぼるが……」
「……続けて」
 がらがらの鐘がなる。結衣子は続きを促す。
「三葉の家系は巫女の家系であり【生贄】の一族だった」
「生贄……」
「小指落としの集めた悪の運気を余分な子供に集めて、水に流していたのだ。悪の運気をひとつに集めて消し去ればその村は結果的に幸福になるからな」
 小指落としは70年前の恐ろしい因習について話した。
「そんな恐ろしいことを……」
「生贄の風習が終わったのは、人間が小指落しを忘れ始めてからだった。僕たちは三葉の家系の贄の子に提案をした。
【もうこんなことしても、人間の大多数は運気など気にも留めないのだ。生贄になって死んでも、犠牲になったものは、運を皆に還元はすれど、認知されはしないのだ】と」
 ふたりの眼の前にいるこの小指落しは当事者だったのかもしれなかった。
 あたかもその場にいたように言葉を連ねている。
「妖怪達も生贄や死を面白がるのにも飽きてきていた。しかし風習をやめるといって今まで死んでいった生贄が納得するはずがない。
 僕達妖怪は死の世界に近い分、死者の霊の影響も受けやすいからな。生贄にされた霊に呪われてもたまらない。
 だから僕たちは生贄の一族に悪い運を与えていたのと同じだけ、その子孫に良い運を与えることにした。僕達が惜しむほどの、取り戻したくなるほどの運気をだ」
 
 
 がらがらの鐘がなる。誰かが参拝をし願いごとをしている。
「私の抱えていた運は、生贄の一族の死と、その反動によって生まれたもの……」
「娘よ。子供のときはどこで暮らしていた?」
「関東で。大学受験と同時に、一族のルーツがあるからってこっちの大学を受けたの。ひいおばあちゃんの家があると聞いていたから。でも【運】ね。それなら納得だわ。父親の会社は不況であっても持ちこたえているから」
 がらがらの鐘がなった。
「しかしお前はこの街に来た。みごとにお前の一族は、忘れていたわけだな」
「だからって……。いきなりそんなこといわれたって。はいそうでしたなんていえるわけないでしょう?」
「そうなのか? 負けた方が楽になれるぞ。少なくとも、僕達の殺気に苛まれることはなくなる。大学にも通えるようになる」
 小指落しは眼を半月のように細め、酷薄な笑みを浮かべた。
「私は負けない! そもそも一年単位をとれなくて、何が幸運だ!」
「欲張りな娘だな。だが、もう遅いがな」
 小指落しが、蛇腹のある腕を揺らしぱちんと音を鳴らす。小指の妖怪の指ぱっちんの合図を皮切りに、結衣子の四方八方から、小指落しが隕石のごとく飛来する。
「360度だ」
 結衣子が限界までお札をまき散らす。まったく狙いの定めていないお札だったが、放ったすべてが妖怪に命中し、ぼじゅうううと霧散させる。
「だが、無駄だ。時間をかけすぎた。僕と会話している間に、小指落しが顕現していくのを忘れたようだな」
 お札の絶対量が足りず、二匹が結衣子の肩にぺとりとひっついた。
 肩についた小指落しがささやく。
「お前は運を持ちすぎている」
「うるさい! 単位を落としたのに、運だなんだいうな!」
「平準化をしなければならない」
 一匹がひっついたのを皮切りに、二匹、三匹と小指落しが結衣子を覆い尽くしていく。
「ちょっとまて、やりすぎだ」
 事態をみることしかできなかった浩太郎が初めて動き出す。
「手を出すんじゃない」
 小指落しが制する。
「でも……」
「運がよすぎる人間は、いつか運によらない災厄に見舞われることだってあるんだ」
「詭弁じゃないのか? 運は良いにこしたことはない」
「運がよすぎる人間がいるってことは、運が悪すぎる人間もいるってことなんだよ。お前のように。人間の僻みや嫉妬は、運だけでは回避できない」
「だからって、乱暴をするのはダメだ」
 話をしている間にも、上空から飛来した小指落しは結衣子に折り重なっていく。
「やめろよ! やりすぎだろ!」
 浩太郎は小指落しの群れに手を引っ掻け、かき分けていく。
 窒息してやしないかと心配になった。
 妖怪は普通の人の眼にはみえないが実態はある。物理的な恐怖は確かにあるのだ。何より小指落しの表面はぬめぬめとしているのだ。巫女服を着ただけの女性ではひとたまりもない。
 
 
「このやろう、離れろって」
 小指おとしの群れをかき分けるも、結子には届かない。
「無駄だ。運気の吸着は絶対なんだ。この女性が占有していた運は返してもらう。抗えないことなんだよ」
「そのとおりだ」
 浩太郎が結衣子に群がっていた妖怪を引きはがそうと触れると、群がっていた一体が応えた。
「この娘は生贄の血族」
「返してもらわねば」
「我々は群がっているが、物理的な害はない」
「多少眠って貰っているがな」
「この土地に返ってきたのが運のツキだ」
「運だけにな」
 群がっていた妖怪がそれぞれ応える。
 瞬く間に小指落しは塔のように積もっていき、結衣子の運を貪っていった。
「畜生め!」
 浩太郎は小指落しの塔に飛び込み、結衣子を引っ張り上げようとする。
 小指落しの群れはぬめぬめとした植物の匂いで満ち溢れていた。
 初めて出会った時の、人を眠らせる成分に満ち溢れているようだった。眠気をこらえて群れをかき分け、奥底に眠っている結衣子のもとへ手を伸ばす。
 掌をみつけて、手繰り寄せ、ぎゅっと掴んだ。
 掴んだと思いきや浩太郎もまた妖怪の濁流に飲み込まれ
 不思議と息は詰まらなかった。妖怪ゆえか、宇宙の根源的な部分に触れているような不思議な感覚があった。
 瞼の裏側が桃色に染まり、紫色の二足歩行の像が踊り狂っていた。何かの本で読んだことのあるバッドトリップに似ている。妖怪と呼ばれたからには由来があるということか。強大なエネルギー。そして禁忌を持つという事……。
 鐘の音と共に小指落しが結衣子のもとへ飛来する。他の神社の初詣で召喚された小指落しもまた、結衣子の存在に気づき、運の塊を求めて飛来する。
 町中の小指落しが折り重なって、強大な塔を空に伸ばしていく。誰の目にも映らない妖怪の連なりが、元旦の夜空に昇って行く。
 小指落しの群れはやがて、粘性の液に溶けて、現世とは異なる脈にそって流れをつくる。

 天高く積み上がった小指の妖怪の群れ。
 その塔の本流の中を、ふたりのやるせない人間が流れている。
 ひとりは不運を嘆く青年。
 もう一人は幸運のあまり世に溶け込めなかった女性。
 小指落しの溶けた異界の本流がアーチ状になり、やがて倒れていく。
本流は神社近くの川べりにそっと倒れ、ふたりの人間を土手の草原に投げ出した。
「げほっ、げほあっ」
 叩きつけられてむせぶ。小指落しの本流は物理的な原理から外れていたが、草原に叩きつけられた衝撃をもろに喰らっていたのだ。
「奴らは……?」
 浩太郎が夜空を見上げると、瓦解したアーチは奔流として空を昇って行く。きらきらとした尾を引いて、天の川のように空を覆っていく。夜の闇の中で、より強い濃度の塊となって空を覆い尽くそうとしていた。
「あれが結衣子の中に入っていた運の塊だ。生贄の血族が人に与え、そして結衣子の代で還元された塊だ」
 浩太郎の脇で小指落しがいった。
「じゃあ、今の彼女は……?」
「もう以前のような運に守られた存在ではない」
 結衣子の方をみやると、巫女服をはだけたまま眠っていた。
 浩太郎はどきりとし、人工呼吸について考えた。下心ではない、まったくの真心から手順を思い出す。まずは気道を確保。そして心臓部を両手で力強く押す。
 しかし気道を確保したあたりで、すうすうと息をしているのがわかる。
「大丈夫か」
 そう安心したとたんに下心がもたげてきた。気道を確保した流れで左手が彼女の後頭部を支えていた。腕枕でもしているようだった。
 煩悩が首をもたげたとき、結衣子が眼を覚ました。
 
 
「君は……一ツ谷。そうか私は、小指落しに負けて……奴らは?」
「あれだよ」
 浩太郎は空を指さしいった。液状化し空を飛んでいる。物理法則を超えた妖怪の姿があった。
「あんなの……倒せるわけがない」
「倒すことから、意識を逸らしてみたらどうだろう」
「そんなの、いきなりやれって言われても無理」
「じゃあ、君のいう寒気は?」
「寒気は……ない気がする」
 結衣子が巫女服をはだけさせていった。
浩太郎は頭を遠くに向け眼を逸らすふりをしながら、視界の端に露出した肌を収めた。
 さらしを巻いた姿が冬の夜風にさらされる。
「物理的に寒いけど、妖気の寒さはない」
 結衣子は眼を瞑り、感覚を確かめていく。
「そうか。妖怪のいうとおりだった。私は今まで運に守られていて……今は空っぽなんだね。これが普通の人の感覚なんだね。まだ、すべては受け入れられないけど……」
「大丈夫だ。俺も空っぽだから」
 眼をあけて巫女服を羽織り直す。帯を締めながら
「君も、空っぽなんだ。前世で何か悪い事でもしたのかな」
 浩太郎に向けていった。
「前世のことなんかわからない。ただ俺は運がないからといって、もう嘆こうとは思わない。ただただ自分が駄目なことだけを嘆こうと思う」
「進歩がないことこの上ないな」
 小指落しが浩太郎の影から現れていった。結衣子は反射的に駆逐しようとお札を投げる。お札はひょろひょろと力を失くし、小指落しの前で枯れ葉のように落ちた。
「なんで……前はうまくいったのに」
「お前の札は運に任せて風の軌跡に偶然乗っていたに過ぎない。今の平準化した運のお前では、俺にお札はあたらない」
 そういって小指落しは足をバネの形状に歪めていた。ぽーんぽーんとアスリートのように跳躍を繰り返す。
「どこにいくつもりだ?」
浩太郎が尋ねる。
「僕もあの群れに加わるんだ。折角の祝祭だからな。この街の運命率の平準化は三葉結衣子の存在によって最終段階に移行した」
「最終段階……」
「運を降らせるんだ。最高の気分になるぞ。金持ちも、金をばらまけばさぞ気持ちいいだろうに。何故やらないのか、こういうときは人間が愚かしく思うよ。心底妖怪に生まれてよかった。では失敬」
 
 
「まてよ。小指落し。まだ話は終わってない」
「なんだ? 運命の平準化はまもなく完了する」
「ふざけるんじゃねえ。俺は皆から少しずつならいいと思った。けれどこれじゃあ、ハイエナのようなものだ。この子は気づいていなかった。そして、自分を空っぽっていった」
「じゃあ追って来ればいいだろう? 祝祭だ。もうお前に会う事はないだろうがな。紛れてしまえばいいのだ」
「意味わかんねえよ。俺と一緒に、運気を集めた日々はなんだったんだよ!」
「僕は妖怪だ。人間の情などわからん。だが欲しいものは掴むしか無い。殴ってでも殺してでもいいから、奪い取るしか無いんだ」
「奪い取る……」
「運を振りまく祝祭なんだよ。落ちてくるものをつかめばいい。ブーケのように。ではそういうことだから。失敬」
 小指落しはバネの足をたわめて跳躍をした。空中で液状化し、夜空の運河の列に交じっていく。
 浩太郎と結衣子は呆然としたまま、夜空より色濃い黒の流れをただただ見上げている。
 
 
 

 
 
 結衣子はお札を放った手をみつめている。懐から札を取出し、空に投げる。お札は紙くず同然にみじめに風に吹かれて、どこかへ消える。
「いままでの私の戦闘力は、運だけだったなんてね……」
 浩太郎はかける言葉が見つからないまま、彼女の手をとった。
「いこう。手をとるのは嫌かもしれないけど」
「どうしてそう卑屈かな? 手が汚れているわけでもあるまいし。それより行くってどこへ?」
「……あいつは追ってこいといっていた」
 夜空を見上げると液状化した小指落しの群れが、端の方から流れ星のように地上に降り注いでいくのがみえた。ひとつの群れになって移動しながら、地上の人間に運を再分配しているようだった。
「あれに追いつけばいいってことらしい」
「でもどうやって?」
「あてはあるさ」
 浩太郎は結衣子の手を引き歩き出す。結衣子は握られるままに引っ張られる。
「あ、悪い」
 気付いて強引に手をひいたことを詫びた。
「だから気にしないって」
「女の子の手を引くのが初めてだから」
「正直にいうなら、良いんじゃない。正直なところ」
「ありがとう」
「おおげさだな。ところで、あてってのは?」
「自転車……」
 浩太郎は神社の脇に止めたペットボトルのついた自転車を指した。銀色のママチャリをベースに造られし作品である。
 パイプロックを外し次に施錠を外す。音と共にゆるりと車輪が解き放たれる。
 
 
「これが自転車……?」
 普通の自転車と違うのは後輪部分についたペットボトルロケットだ。
 ペットボトルロケットの噴出を利用し加速をするという代物だ。
「人生を加速させるための機械と、俺は呼んでいる」
「そっか……」
 結衣子は憐みを込めて彼を見つめた。
「憐みをこめないでくれよ。つっこみを、いれてくれよ」
「いや……マジに言ってるなら、否定するのも可哀想だから」
「わかりにくいボケをいってすまなかった。この自転車はギャグだ」
「ふふふ……正直でよろしい。でも洒落た返しは思いつかないや」
「【物理的に加速しても人生は加速しないだろ】とか」
「【それでも我々はかの国に行くのだ】とか?」
「君は結構、ノリがいい」
「ノリがよくなかったら巫女服なんか来てまで学校に行こうなんて思わないよ」
「それもそうか」
「だから行きましょう」
 結衣子はママチャリの後ろの座席に足を揃えて腰掛ける。
 浩太郎は二人分の重さに唸りながらペダルを踏みだす。弱音は吐かない。ゆっくりと自転車は前に進む。
 空を飛ぶ真っ黒な群れを追って、ふたりは夜の街を走り出す。

第五話

 ふたりは役割分担をして進んだ。結衣子は空に浮かぶ液状化した小指落しを索敵し、浩太郎はただひたすらペダルを漕いだ。
 ただただ、ずっと、漕いでいた。
 小指落しの空の運河は思いのほか速くはない。かといってのんびりもできないが自転車で休み休みいく分には問題ないようだった。
「どうして君はあの妖怪と一緒にいたの」
「俺があまりに運が悪いからといって、向こうから来た。はじめは、俺一人の運の平準化が目的だったようだ」
「大学が一緒だから私に出くわしたわけか。私はもともと怖気を感じて学校に通えなくなってて。駆逐しようとしたから……。でも、私の中に代々受け継がれてきた運があって」
「いけばわかるさ」
 いってすぐに、空の運河から一筋の漆黒の雫が飛び去って行った。どこか遠くの家屋へふりそそぐ。
「町の中心に来たから、運の分配が始まったのか」
 黒い雫は四方八方に飛び散っていく。
「でも運が悪いって私よくわかんないんだよね」
「一緒にいればわかる」
「本当? 君の要領がわるいだけじゃないかな」
「わからないんだよ。要領っていう奴も。良いと思うことをやろうとしても、裏目にでてしまう。それなら引きこもるのが一番じゃないかって」
 話しているうちに、自転車の進行方向に風に吹かれてゴミがまき散らされた。
「気のせいじゃないかな」
「みてろよ。ここからすごいのがくる」
 風に煽られて看板が飛んでくる。猫が喧嘩をしていて道を塞いでいる。迂回をしたら通行止めだった。元の道にもどったら猫の喧嘩が酔っぱらいの喧嘩に変わっている。結衣子に絡んできたので全力で自転車を漕いで振り切った。
「うわあ。裏目に出るねえ」
「普通のことをやろうとしても、必ず何かの邪魔が入ってすべてが台無しになる。そんな人生なんだ」
「でもさ、でもさ。やっぱり納得いかないよ。本当に運がわるいなら生まれてすぐに死んじゃったりとかもあるでしょ。でも君は生きてるし引きこもりでもなんとかなってる」
「運命と運は違うだろう」
「運命と運、ねえ。難しいね」
 
 
 自販機の前で小休止し、あったか~い珈琲を買った。結衣子がスマートフォンでルートを調べ、小指落しの行先を予測する。
「進行方向がわかってきた。たぶん磐樹山神社だ。神社から神社に向かって飛んでいるみたい」
「山か……俺の体力じゃふたりは無理だ」
「よっぽど強くないとあの斜面はむりだよ。押していきましょう」
 珈琲で臓腑を温めてまた自転車に乗った。
「三葉さんはものすごく運がいいって、小指落しがいってたけど」
「自分ではよくわからないけど。野球でバットをふったら必ずあたってた」
「運動神経がいいだけじゃないのか?」
「それも含めて運なんじゃない。漢字一緒だし」
「運の語源の話になってきた」
「動きとか巡りあわせとか」
「だったら俺は動きや巡りが悪いのかな」
「運の善し悪しだとあまりに抽象的だし、一ツ谷よりよっぽど運が悪い人もこの世にたくさんいると思うけど。巡りの悪さでいったら、相当なものなんじゃない? 自転車を漕いでいるのをみてると」
「これでも頑張ってるんだけど……」
 浩太郎の自転車はぎこちない。
「がんばれ青年!」
「だったら尚更」
「尚更?」
「巡りが悪い人に、手を差し伸べる妖怪がいたっていいって思う」
「そうねえ。私も、その点は同意。私に迷惑をかけてたのは許せないけど」
 山道に入り、登り坂に差し掛かったので自転車を降りて押していく。
「なんだか、あの群れ……速くなってないか?」
「人に運を配った分、軽くなったのかも」
「サンタクロースかよ!」
「急ごう」
 結衣子の促すままに全力で自転車を押す。坂道の頂上にさしかかると、アップダウンの激しい道が続いているのが見渡せた。
 
 
「乗ろうよ」
 結衣子が自転車の後ろにスタンバイする。
「でも下り坂だ」
「大丈夫だよ。私がいる」
「運を吸収されたのに?」
「関係ないよ!」
「もし転んで君を傷つけたらと思うと、危ないことはできない」
「転んでもいいんだよ。進むんだよ!」
「怖いだろ!」
「それが人生さ!」
 結衣子は浩太郎をサドルに座らせ、地面を蹴る。ペットボトルをつけた自転車は坂道を転げていく。
「ひゃは。はやいはやい!」
 はしゃぐ結衣子を背中に感じながら、浩太郎は漕ぎ続ける。
 自転車は車のいない車道を、転げ落ちるように進む。
 路面が街頭の明かりに照らされて、凍結しているようにみえた。
 いつだってこういうときは転ぶんだ。
 コインを投げたら、半分の確率なのに、いつだって裏がでてしまう。
 だからといって。
 いまは転ぶとか、転ばないとか、怖いとか、怖くないとか。
 そういうことじゃない。
 背中には結衣子がいる。
 女神を乗せていると思う事にする。
 この捻くれた魂が捻くれたまままっすぐになれるのなら。
 それは不運を穿つ螺旋!
 空を飛ぶ妖怪の運河はどんどん速度を伴って遠ざかっている。
 見失わない様に、坂道でも速度は緩めない。
 次の上り坂のためにできる限り、回転数をあげる。
 車輪の滑る感触。少しだけ浮いた。けれどバランスは崩さない。

 滑る路面を抜けて、なおも漕ぎ続ける。
「で、私達、なんのためにあの雲を追ってるの?」
「奪われた運を取り戻すため?」
「本当に、運なんか必要かな」
「三葉さんは、いらないの? 運」
「なきゃなくていいんじゃない。御札が当たるくらいしか役に立たないし」
「宝くじ買っておけばよかったのに」
「あー! そうだった! じゃあとりかえす?」
「俺は運の良さなんかわかんないからとりあえず小指落としを殴って連れ戻したい」
「運じゃなくて、妖怪の方なの? 宝くじはいらないの?」
「運の悪さなんかもうなれてる。それよりは俺を外に連れ出した感謝が先だ」
「あはは。エモーション」
「妖怪だからわかんないけど」
「格好いいんじゃない? 男の子は格好いいこといってればいいんだよ。あ、上り坂」
「このまま加速して登り切る。リミッター解除だ。三葉さん、足を、ペットボトルよりあげて」
「こう? 足上げた!」
 結衣子の返事とともに、浩太郎はママチャリのブレーキ脇にあるスイッチを押す。
 ペットボトルの栓が解き放たれ、圧縮された水がブースターとなって噴出する。
 しかし自転車が加速したようには思えない。
 水を垂らしながら走っているようにしか、感じられない。
「ねえ。なんか変わりない気がする」
 結衣子の言い分はもっともだった。
「いや。成功だ」
「でも……」
「その証拠に俺はこの坂道を登り切る」
 ペットボトルロケット自転車は、まったくロケットの意味をなさなかった。
 ペットボトルの水が軽くなった分、加速しているといえなくもない。
 が。それでも尚、無様というより他はなかった。
 だから、なんだというのだ。失敗がなんだというのだ。水が勢いよく垂れるだけの装置だからといって、意味がないわけではない。
 
 
「意味がないわけじゃ、ないんだ」
「そっか……。そうだね。そうだよ。その意気だよ」
「がんばるよ、俺」
「うん。がんばれ。がんばろう。私もがんばる」
「がんばるよ、一生懸命!」
「うん!」
 自転車二人乗りでのゆるやかな坂道。こんなにつらいことはない。それでも降りようとは思わない。二人乗りをしているのだから。浩太郎は思う。
 何より胸が、背中にあたっている。
 胸が、背中にあたっているのだから!
 空を見上げると妖怪の運河はだんだん擦り減って来ている。運を流れ星にして住民に分配していたのが、盤樹山神社に近づいたことで人が増えたことで、分配する速度が上がっていったのだ。
「やっぱ無理!」
「もう少し!」
「あがれ」
「あがる!」
 顔を真っ赤にし、太ももを酷使しながら、自転車は緩やかな坂道を登る。
 やがて磐樹山神社の入り口へたどり着いた。
 妖怪の運河は、もはや小さな紫色の雲になっていて、神社の鳥居の上をふよふよと昇っていた。
 雲からは黒い葛のようなものがこぼれている。
 神社の人々に、運のしずくを振らせているのだろう。
「あの雲に触れればいい気がする。いこう!」
 結衣子が手をひいた。
「ふとももが!」
「気力だ! テンションだ! 妖怪を殴るんでしょ!」
 浩太郎は千切れそうな太ももを引きずりながら引っ張られる。
「先行ってて。俺はキメる係じゃないから」
「しょうがないなあ、もう」
 神社の坂道を結衣子は颯爽と翔けぬける。
 追って来ればわかる、というのなら、突っ込んでやろう。
 
 
 人の波を抜けて、いくつもの鳥居をくぐって、結衣子は神社の本殿へ差し掛かる。
 妖怪の雲は止まらない。奥のひとに運のしずくを分配しながら神社の本殿の上空で留まった。
 やがて魂状にまで小さくなり、それでもなお遠くへ行こうとする。
 魂になった妖怪は、今度は空にむけてしゅるしゅると上向きになった。
 空にとぼうとしている。
「さ、せ、る、か!」
 結衣子は助走をつけて跳躍した。狛犬を足がかりに倉へ。倉から倉へ。
 初詣のひとだかりが彼女を見上げる。
 恥ずかしさなどもう知ったことか!
 やがて本殿の倉へと跳躍。
 一番高い屋根の上で、黒いみやみやの塊の妖怪を掴んだ。
 小さな魂は最後の力を振り絞って逃げようともがく。
「私が強欲なのか、それともお前がいじわるかはわかんない。でも、挨拶なしに遠くへ行くのは水臭い」
 結衣子は魂に引っ張られながら、身体を振り乱す。
「くそ、なんて力!」
 振り回されながら脇道にそれていく。
 もんどりうって本殿の脇道の小さな社に飛び移る。
「あぶね! 落ちるとこした!」
 積もった落ち葉の上に着陸し、事なきを得た。
「でも、放さないもんね!」
 やがて神社の脇道に佇む地蔵の前で結衣子は人魂を抱え込む。
 抱え込み、蹲っていると魂はやがて、元の妖怪の姿に戻っていった。
 結衣が小指落としを抱えていると、浩太郎が追いついてくる。
 浩太郎は息を切らしながら妖怪の動向を見守る。
「みる?」
 結衣子が抱え込んだ中からぴょこんと、妖怪の蛇腹のような腕が出てくる。
「やあ」
 そこには元の、人間の指を膨らませたような妖怪がいた。
「お前は確実に死ぬ」
 何事もなかったように挨拶を交わした

「小指落し……元の姿に戻ったのか」
「お前は必ず死ぬ」
「小指落し……」
「どうして、挨拶を返してくれない?」
 それは浩太郎と過ごした妖怪ではなかった。同じ種族の別の存在、といえた。
「……お前は必ず死ぬだろう」
 浩太郎は挨拶を返した。
 小指落としはほんのりと笑い
「良き生を」と、満足げに応えた。
「ねえ、私には?」
「お前にはやらん」
「なんでよ……」
「お前の運はまだ大きすぎる。奪ったと思っても、まだまだ、たくさん残されている。我々が関与するべきではない」
「あ、そ。でもこの人にはあげてもいいよね。運」
「ああ、そのつもりだ。この街の運の平準化も終わったことだしな」
 その小指落しは自らの心臓部から、光る玉のようなものを取り出す。光る球は浩太郎の中に入って溶けていった。
「初詣の運気の交わりの中から、この街の人間の余剰分の運を固めたものだ。大事に使えよ」
「まてよ。もういくのかよ」
「勘違いしているようだが、私は君の出会った小指落としではない」
「出会ったことを知ってるだろうが」
「小指落としの記憶は、共有されている。よって個というものは存在しない」
「礼をいいにきたんだよ」
 浩太郎はためらわず言った。
「外にだしてくれてありがとう」
「僕はそんなことで心を動かさないぞ」
「わかってるよ」
「では。お前は確実に死ぬ……」
 小指落としは眼から緑色の毒霧を噴出させていた。
「お前、それ……」
「水じゃない。毒霧だ」
「そうか……」
「挨拶を返してくれ」
 浩太郎は把握した。
「お前は確実に死ぬ……」
 そして妖怪の挨拶を返した。
「アディオス」
 最後にそういって小指落しはどこかへ飛び去って行く。
「普通の別れの挨拶もいえるのか……」
 あとには巫女服の女性と、器の計り知れない男子だけが残される。
 
 
 
 神社の入り口で、初詣の人に紛れて、ふたり妖怪の背中を見送った。
「帰ろうか」
 浩太郎が結衣子に手を差し伸べると、彼女は笑ってその手をとった。
「ありがとう」
 浩太郎はしみじみといった。
「何が?」
「俺はいままで生きていて、手をとって貰えるとか。うまくいったことがないから」
「それはたまたま、いままで運が悪かっただけだよ」
「そうだけど……」
「手をとるくらいのことも、運が戻ったせいにするの?」
「それは違う」
 結衣子はしょうがないようなものを見る眼で彼をみる。
「私が手を差し出したのは、たまたま私のために自転車を漕いでくれる人がいて、たまたま手を繋げる距離にいて、たまたまそういう気分だった。運があろうがなかろうが、自転車を漕いでくれたのはうれしかった」
「あんなんでいいなら、いつでも。身体を張れる」
 言っていて恥ずかしくなったが、浩太郎は赤面しながらも、誤魔化さない。
「ふふふ。じゃあ来年の単位。2単位だけ代わりに出席して」
「善処……いや。約束、するよ」
 また学校にいけるね、と彼女はいった。そうかもしれない。浩太郎はもうどうしようもない人間ではない。なくも、ない。
 ふたりの乗りの自転車で坂を駆けのぼったとき、何かがシフトしていったのだ。
「乗せていくよ」
「ありがと」
 結衣子の手を引いて帰り道についた。
 空が白んできた。危ないと知りながらも、下り坂で二人乗りをした。
「ひゃっっっっっほーーーーー!!」
 声を出して、叫んでみた。
 上り坂と下り坂の数は一緒のはずだったが、帰り道はとても速い。
 上り坂を抜けた先には、高速の永遠が待っている。
 忘れられない出来事だから永遠。
 一瞬の永遠の中を、ペットボトルの殻をつけた自転車が前に進み続ける。
      了

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