大雪の宿

著:笛地静恵

【前書き】国民的なマンガ・アニメである『ドラえもん』の二次創作です。彼も彼女が好きだったのではないか。そんな発想がもとです。この作品には、一部に性的な表現がふくまれています。ご注意くださるように、お願い申し上げます。

1・邯鄲の間

 今は昔、ありえない宿に泊まった。
 白山連峰で死ぬつもりだった。
 失恋をした。助手をしていた女性と、軍需産業の御曹司とのどろどろの三角関係に巻きこまれてしまった。
 怪力だった人の良い旧友が、大陸の戦場で行方不明になっている。戦車隊長をしていた。自分の作戦を信じて戦ってくれた。彼我の性能の差が、兵器にありすぎた。内地の参謀本部に勤務する自分だけが生き残った。
 思い屈していた。
 すべてを清算したかった。
 高い崖から身を投げればよい。
 適当な場所は、登山道に何か所もあった。しかし、どこでも、できなかった。後戻りした。脛の骨が笑った。何度も通り過ぎた。
 雲ゆきを見ると、天候が大きく変化しそうだった。雪になる前に、白山の連峰を下りてきた。またしても、尻尾を巻いて、逃げて来たのだ。僕は負け犬だ。心底、惨めだった。
 《静山荘》は、乳部地方の乳頭温泉峡にある。大学の山岳部の先輩たちに紹介された宿だった。
 白山連峰から下りてくる山道から見下ろすと、巨大な黒蝶が翼を休めているように見える。黒い瓦の輝きが鱗粉のようだった。焼け焦げたように黒い。
 乳頭温泉の一番奥まった谷間に位置している。急峻な山肌が左右から迫っていた。
 木造の三階建て。正面から見ると、実に大きな宿である。鉱山があった時代の繁栄を偲ばせる。堂々とした貫禄があった。大学の山岳部の時代から、何度も来ている。顔見知りである。部屋数も多い。いきなり行っても、断られる心配はない。
 宿へ下る坂道の途中から、雪が白く積もり始めていた。
 欅の上がり框に腰を下ろした。背嚢を下ろし、登山靴の紐を解いた。土間の黒い土は、人間の足で踏み固められている。鉄のように固かった。二百年近く、使われている。
「ようこそ、いらっしゃいました。お待ちしていました」
 僕の汚れた両足を、女将のお静さんが、木の桶の熱い湯で、指の間まで洗ってくれた。灰の薫りがした。銀色の髪が、土間の薄闇にきらめいた。
「間に合って、よかった。もう、すぐに、雪になります」
 笑顔で優しい言葉をかけられている。しかし、返事をする気力がなかった。曖昧に頷くばかりだ。
 古い宿帳に住所と氏名を記入した。
「いつもの、三階の隅の〈邯鄲の間〉を、ご用意してあります」
 女将の白い顔が笑った。僕は、窓の外の眺望が好きだった。乳部地方の台地を一望にできる部屋だった。老いでかすれているが、女性の優しい声を遠くできいた。灰色の着物が落ち着いていた。糸の性質によるのか、角度によって赤い小さな炎が、ちらちらと走った。質素のようでいて華麗である。お静さんに似あっていた。
 若いころは、さぞかし美人だったことだろう。今でも、目鼻だちが、ととのっている。並ぶと、男としては小柄な僕よりも、背丈が目線より上の分だけ高い・昔の女性としては長身だった。
 宿の力仕事を担っている老人が、外から帰ってきた。火の香がする。焚き火でもしたのだろうか。小さなことが気にかかる。神経が疲れている。
「雪だ」
 それだけをつぶやいた。声はしゃがれている。煙を吸いこんだのだろうか。珍しい青山猫の毛皮の上着から冷たい雪の香がした。大きな腹巻をしている。そこに道具袋が縫いつけられていた。女将の手製だ。
 彼の名前は土左衛門という。お静さんは親愛の情をこめて、土左ちゃんと呼んでいた。かなりの年配だと思う。狸のような丸い顔に丸いからだ。よく動いた。
土左衛門老に、三階の部屋に案内された。柾目の杉板に〈邯鄲の間〉と筆の細字で書かれている。女将の手だろう。
「湯は、わいとります」
 掃除や湯の温度の管理も、彼がひとりで全部しているのだった。今夜の泊り客は、自分だけだという。女湯はわかしていない。男湯だけだ。
 炭の燃える火鉢を置いていってくれた。
「火事には気を付けてくだせえ」
 僕は冷えた指先を温めた。
 大風呂に入ろうと思った。のびのびと脚をのばしたかった。全身がこわばっていた。

2・骸骨の女

《静山荘》の女湯には、骨の女が入りに来たという伝説がある。江戸も末のことである。
 吹雪の晩に、美しい女が止まりに来た。白い着物の薄い肩が震えている。からだが冷え切っている。先先代の女将が気の毒に思い、女湯に案内した。他に客はいなかった。夜食の用意もした。しかし、いつまで経っても湯から出てこない。心配して見に行くと、白骨が湯に浮いていた。血も肉もなかった。
 着物と骨は手厚く弔ってから、村の寺に埋葬した。源家の菩提寺である。
 明治になってからの源家の《静山荘》の繁昌は、それから始まる。近くに鉱山が発見されたからだ。雪女の恩返し。そう思えた。今の女将も、月命日には、寺の墓参りをかかさない。
 僕は、湯の中で興奮していた。気が付けば、もうずいぶんと、女を抱いていない。それどころでは、なかったのだ。自分をしごいた。骸骨の女でも、抱けば面白いかもしれない。自堕落な気分だった。脂の浮いた顔を洗った。
 湯からの帰りは、一階の大きな正面玄関を通ることになる。人間大の木の古時計が、いきなり時ならぬ時を告げた。発条仕掛けが、壊れているのだ。英吉利製だという。修理の部品が、もうなかった。国は列強によって貿易が封鎖されていた。
 女将の囲炉裏のある部屋に呼ばれた。自在鉤が天井から垂れ下がっている。茶をご馳走になった。
 鴨居の上に、亡くなったご主人の写真があった。すでに褪色している。丸い眼鏡の笑顔が柔和だった。乳部地方の山歩きの先輩だった。良くしてもらった。射撃の名人でもあった。手を合わせた。地杉の梁が、巨人の肋骨のように逞しく反っている。煤に黒光りしている。
 夕食になった。
 鹿の刺身と、鹿肉と野菜の煮物、それに、きのこのつけものが付いていた。
 鹿は、土左衛門老が、鉄砲でしとめたばかりだという。空砲を使った。肉は傷んでいなかった。彼の腹巻には、いろいろな道具が入っている。なんでもこなした。食事の席に、老人の姿はなかった。別席で食べているようだった。
 鹿の肉は、噛むと弾力があった。燻製のような滋味がある。獣の香がした。食べ物を口に入れて、今朝から、何も食べていなかったことに、僕は初めて気が付いた。死ぬつもりだった。そもそも、食料がなかった。だから、空腹だった。
 きのこは、女将が漬けたものだ。彼女の手の匂いがした。乳部地方では、銀茸と呼ばれる種類だ。月夜に銀色に光る。漬けると脱色して白色になる。癖になる味だ。口に入ってくる。するすると食える。
 濁った地酒に酔った。女将の酌だった。
 お静さんの待遇が変化したのは、大学四年生の夏の山岳部合宿での、小さな事件がきっかけだった。川で溺れそうになった野良猫を助けたのだ。
 青猫は、枝の先端の小鳥を狙っていた。頭を低く尻を高くしていた。小鳥が飛んだ。猫も飛んだ。小鳥が逃げた。猫の爪が空を掻いた。そのまま、真下の谷川に落下した。
 僕は、子どもの頃、青猫を飼っていた。
 危ない。
 からだが動いた。
 谷川に駈けこんだ。暴れる猫を掴んだ。しかし、意外に深い。藻の生えた水底の石に、足が滑った。猫といっしょに流された。ようやく中州に這い上がった。
 青猫を《静山荘》に連れて帰った。猫は鹿の干物を与えられた。滋養がある。栄養が凝縮されていた。
 鹿の干物は、白山連峰の名産である。江戸時代は藩の大名に献上された。
 山を歩いていると、白い鹿を何度も見かけた。この地方だけに自生する。
 僕は熱い風呂をもらった。猫を助けた行為を、女将さんが、ことのほか嘉納した。
 彼女は、手ずから僕の背中を流してくれた。
「猫一匹のために、秋の谷川に飛びこむ、物好きな男は、乳頭温泉には、いない。あたしも、子犬を、飼っていたことがあるから」
 しんみりしていた。
 山岳部の合宿中も、僕の鹿の焼き肉が、いちばん厚く切られていた。川魚が大きかった。土左衛門老も、喜んでくれた。
 夜になった。《静山荘》のふとんは、綿がみっちりとつまって重かった。老人が、真鍮の湯たんぽに湯を入れて、足元に入れてくれた。温かい。枕元のランプの芯を小さくした。火をしぼった。すぐに眠りについた。
 その夜から吹雪になった。

3・雪の下に

 一晩に二メートル以上の積雪だった。それが三日間続いた。風は轟轟と吠えた。バスが来ない。帰れない。三階建ての宿の一階は、完全に埋まった。二階から出入りしている。もっとも外に出ても行けるところはない。麓の村までの道がなかった。
 そして、この乳頭温泉峡が、外界に通じる唯一の橋が落ちた。通行止めになっている。電話線もとうに切れている。不通である。孤立した状態だ。すべてが戦争につぎこまれている。復旧のための重機もない。簡単には、回復しないだろう。
 お静さんは、いささかもあわてなかった。
「準備はしてある。《静山荘》は、一、二週間の籠城など、何でもない」
 慣れているのだ。
 僕も、この状況であれば、重い罰則には該当しないだろう。強いて楽観的に考えることにした。本隊の作戦行動中は、不眠不休だった。数か月か、地下の本部で寝泊まりした。実家の家族とも接触できない。外部と切断された環境にいた。それを、まとめて取り返しているだけだ。
 呼び戻されれば、即時、帰還する規則である。しかし、これではできない。戦時下に時間を無為に浪費している。復讐の意味もあった。死ぬのは、その間のいつでも良いのだ。焦ることはない。
 上官には、画期的な侵攻作戦の構想をまとめるために、熱くなった頭を冷やしたい。白山連峰に登ると言ってある。入山と下山の日時を含め、二泊三日の登山の計画も提出してある。一人になりたいという希望は了承された。
 僕は参謀本部で、大陸の戦車戦の作戦計画を立案している。作成した戦場のジオラマは、精巧さと正確さで、軍人たちの高い評価を受けた。土壌の性質から、地層まで再現していた。幼いころから手先は器用だった。先の作戦の勝利には、少なからず貢献していた。
 長いものには巻かれろ。
 それが、僕の生き方だった。今回は、それがつまらない軍人たちではなくて、大自然という雄大な存在だった。安んじて身を任せた。
 土左衛門老が、炭を入れた大きな陶器の火鉢を〈邯鄲の間〉に運んできた。僕は、ぼんやりとした頭で、一酸化炭素中毒でも、人は死ねるのだと考えていた。
「空気は、入れ替えて、くだせえよ」
 厳重に注意されていた。
 古い木造建築は、風圧と雪の重みに軋んだ。大腿骨が折れる音。女のような悲鳴をあげた。阿鼻叫喚だった。ぱちぱちと肉の爆ぜる音もしている。
 何度も、夜の眠りをさまたげられた。
 悪夢を見た。断末魔の死体。囚われの寄生虫。その運命。
 夢が漂流していく。
《西山荘》は大型の豪華客船だ。嵐の海を航行している。行く先は不明だ。沈没のうわさがまことしやかにささやかれている。
 風がやんだ。雪がふっている。しんしんとしずかだ。何の音もしない。雪が吸いこんでしまう。
《静山荘》には、僕と女将と老人の三名がいるだけだ。
 今の《静山荘》は、雪が深くなる冬期は休業となる。原則として客を取っていない。夕食の席で初めて知った。仕事が忙しく、陸の孤島に幽閉状態だった。しばらく足を向けていなかった。悪いことをした。僕は特例の客なのだった。
 国家は戦時体制だ。客が少ない。いつ決定的な事件が起きるかわからない。大陸の戦線だけではなくて、南方海域での列強との開戦は避けられない。それが、世論の大勢だった。総力戦になるだろう。今は、これでも嵐の前の静けさなのだ。
 一日、三度の食事だけが、時間を計る尺度だった。昼と夜の交替しかわからない。
 もう何日、ここにいるのか。それすら、あやふやになってくる。
 火鉢には、いつも炭が赤く熾っていた。照明にもなった。土左衛門老が、僕の気が付かないうちに、新しい炭と交換してくれている。僕の背嚢には、作成中のジオラマの図面を入れてある。手を付ける気力がなかった。
 今日も、火鉢と真鍮のランプのあかりで、床の間の掛け軸を、ぼんやりと眺めていた。
 下に大きな壺が、丸い口を開いている。中に雪をいただいた高峰が見える。雲がたなびいている。そこから、白い蝶が舞い上がる。背中に白い仙人を乗せている。白雲に昇っていく。雲には丸い穴が空いている。視線が上下に何度も往復した。
 僕は、少しだけ窓を開いた。〈邯鄲の間〉の淀んだ空気を澄んだ外気と交換した。深呼吸をした。冷たい雪の香を肺に吸いこんだ。咳をした。
 一面の銀世界だ。どこに道路があるかもわからない。猫を助けた谷川も凍っている。遠くに小さな黒い人影が見えた。何をしているのだろう。何かから逃げているようにも見えた。すぐに雪に紛れた。土左衛門老の青い姿ではなかった。気のせいかもしれない。窓を閉めた。

4・大浴場で

 また、夜が来た。おねしょをする夢を見て、目をさました。なさけない。子どもの頃は、夜尿症だったのだ。しんしんと冷えこんでいる。
 からだを温めてから、寝ようと思った。《静山荘》は、大浴場がいい。源泉のかけ流しである。二十四時間、いつでも入れる。
〈邯鄲の間〉の空気は、火鉢の炭に温まっているが、廊下に出るとひんやりとしている。もともと電気はない。宿の煮炊きは薪だった。
 僕は火鉢の火をランプの燈心にうつした。手の中の光だけが頼りだ。古い木の廊下が、足の下で、みし、みしと鳴った。
〈邯鄲の間〉から近い方の建物の端にも階段はついているが、そこに行くためには、ふとん部屋の前を通らなければならない。
 僕は、そこで泣いている女性に会ったことがある。気のせいだと思い、湯の帰りにもよったが、まだそこに立っていた。足の骨が着物の裾から透けていた。
 それ以来、遠くの方の階段を使うことにしている。長い廊下を端から端まで歩くことになる。
 ひった。ひった。旅館の名前の入った下履きが、磨かれた木の床にはりついては、はがれる。だれかの足音が、すぐうしろからついてくる。ふりむいてもだれもいないに決まっている。しかし、うしろを向くことができない。骨の女がいたらどうしよう。自分の足音が、壁に反響しているだけだ。自分の影が長く延びているだろう。二人分だったらどうしよう。いやなことを考えてしまう。
 ランプは手のまわりだけが丸く明るい。周りの闇を、むしろ深めてしまう。床は掃除が行き届いている。しかし、焼けた火の香と、埃と腐った水の香がした。心細かった。
 それぞれの部屋の襖は、締め切られていた。耳を澄ましてしまう。中から切羽詰まった人声がする。そんな気がする。臆病な性格なのだ。こんなことで、びくびくしていては、いけない。お静さんに、笑われてしまう。
 雨戸と二重の硝子窓が固く閉められている。外側の窓硝子に雪が結晶化している。ぶるぶる。ふるえてしまう。風が轟轟と燃えている。温かくなることを考えよう。
 乳頭温泉でも、もっとも山側にある《静山荘》は、成分が濃い。傷を治し、疲れを癒す。鉱夫たちに好まれていた。また、子宝をさずかる。山の女たちにも人気だった。
 二階の大広間は、夜通し歌と三味線の音が絶えなかったという。しかし、今は、森閑としている。大風呂に行くには、その脇の長い通路を通ることになる。かつてにぎわった場所には、人の気配の残ることがある。僕は、その気配というやつに妙に敏感だった。だれかがいるような気がする。声帯も肺もない骨の女は、どんな声を出すのだろう。舞台はただ暗黒だった。
 おとなの作った巨大な迷宮に、小さな子どもにされて迷いこんだようだった。昼間よりも夜間の方が大きく感じる。特に、こうした古い建物はそうだった。
ここでようやく大風呂への道の半分を、こなしただけである。足をはやめた。
 一階の玄関を通り過ぎた。だれもいない。女将が集めた人形が、夜の闇に集まっていた。さっきまで、話しをしていたようだった。僕が来たので、静まり返っている。大時計が時ならぬ時を告げた。飛び上っていた。土間に雪の香がした。
 ようやく大浴場についた。紺地に白で〈男湯〉と描いた暖簾を片手でかきあげた。脱衣所に入った。
 用意された百目蝋燭に火をつける。燭台ひとつに三本が立っている。中央が高く左右が低い。蝋燭の長さは一尺、直径は一寸ある。炎も豪勢に大きなものだった。それを計三つともした。闇に慣れた目には、かなり明るい。燭台そのものも、銀器だという。重量感が豪華だった。鉱山の名残の豪奢なのだろう。
 その燭台のうちの二つを、湯殿の中に持ちこんだ。扉の左右に、壁が四角く刳り貫いてある。金具に根元を差しこんだ。これで、少なくとも洗い場では、自分の手の爪までが見える。
 後は闇が深い。
 大浴場は、天井が高い。鉱泉宿の荒々しさが残っている。岩風呂である。音がよく反響した。温泉の香がしている。光のとどく湯に入った。冷えたからだに湯が染みる。痛いぐらいだ。土左衛門老の丸い手が調節しているが、雪だから、やや温度が高めになっているのだろう。しばらく目を閉じていた。からだが湯に慣れてきた。呼吸が楽になる。

5・混浴の夜

「すみません」
 脱衣所に若い女の声がした。
「はい」
 思わず返事をした。
「あたしも、入っていいかしら。雪で、からだが、冷えてしまって」
「いいですよ」
 そう答えた。僕しかいない。
 女湯は、土左衛門老が、湯を入れていないと言っていた。仕方がない。こんなに広いのだ。一人きりで独占はできない。少なくとも生きた人間の声だ。白骨の雪女ではなかった。
 そうだとしてもかまわない。僕をあの世に連れて行ってくれるだろうから。むしろ好都合だった。
 衣擦れの音がした。
 そして、扉が開いた。湯でからだを流している。
 こ~ん。
 木桶が床を叩く音が木霊した。
 それから、湯に入った。僕は目をつぶっていた。できるかぎり見ないでいようと思った。僕のところまで波が来た。
 村の人だろうか。麓の村から《静山荘》に遊びに来る人たちがいた。下半身が大きく緊張している。彼女に見せられなかった。
「ああ、あたたまるわ。あたし、お風呂だいすき」
 僕は瞼を開いた。湯の上に、黒髪を高く結い上げた小さな顔が、白く浮いていた。目鼻立ちが、お静さんに似ている。濃い眉が鋭かった。親戚だろうか。そういうものだという返事だった。口元に笑みがある。
「雪に閉じこめられた生活でしょ。退屈になっちゃって。《静山荘》まで冒険に行こうと思い立ったの。あやうく、遭難するところだったけど」
 笑い声が澄んでいた。都会的な軽い口調である。町場に住んでいたことがあるという。
「しずくと、もうします。ひらがなの、し、ず、く」
 細い指が、空中に曲線をえがいた。僕も滑川と名乗った。濡れた前髪の形を整えた。
 彼女は、このあたりの山の状況に詳しかった。見晴らしの良い場所を尋ねた。つまり、崖になっているところである。いろいろと、穴場を教えてもらった。良いことをきいた。雪が止んだら。試してみよう。
 僕も自然に受け答えをしていた。気が付くと、ずいぶんと長いこと話しこんでいた。話し上手の人だった。
「熱い。からだが燃えそう。これ以上は、湯あたりしちゃう」
 いきなり。白いしなやかな肉体を湯から引き抜いた。両脚で立ち上がっていた。僕の方を向いて仁王立ちになっている。股間の影が濃い。
「どう。それなりに、肉もついているでしょ」
 左右の乳房を両手で持ち上げていた。自分で重量を計るような動作だった。乳首の先端から雫が滴る。
「骸骨じゃないわよ」
 からかわれていた。僕の恐怖をわかっていたのだ。腰に肉がついている。尻が厚く、太股は豊かだった。筋肉質のふくらはぎだ。足首が細い。労働で鍛えられた肉体だった。
 湯殿は暗い。蝋燭の光がとどかない。闇の中で、しずくは、からだを洗い、黒く長い髪を洗った。白い肉体が透けていた。彼女が外に出ている間は、出るわけにはいかない。

6・女の山へ

〈邯鄲の間〉にもどっていた。
 それから、しずくが、今夜、どこの部屋に泊まるのかを、きいていなかったことを悔やんだ。まさか大雪の中を家に帰ることはないだろう。いつも肝心なときに、僕は臆病になる。
 雪はやまなかった。
 小一時間もしないうちに、しずくが僕の〈邯鄲の間〉を訪れた。熱燗にした地酒と、銀茸のつけものを持ってきた。
「あたしの、おごり」
 都会の話をききたがった。できるかぎり、おもしろおかしく友人たちの武勇伝を話した。笑っている。暗い時勢が明るくなった。
 飲める口だった。酔うほどに、ますます陽気になった。
 いつか浴衣の襟元がゆるく開いた。乳房の上半分の隆起が覗いた。肌が汗に照るようだった。女の汗の香が匂った。
「泊って、いこうかしら」
「いいよ」
 しずくが、ふとんに入ってきた。何も身に着けていない。夜が白かった。生まれたままの肉体だった。彼女は、僕よりも大柄だったが、並んで寝てしまえば、問題にならなかった。
「あたし、いつも、こんなことする、女じゃないのよ」
「わかるよ」
 抱き合っていた。体温のぬくもりを感じた。二匹の猫のようにじゃれあっていた。
 僕の舌を吸い返してくる唇の力だけでも、しずくが本気になっていることがわかった。からだが熱い。
「しずくは、雪の降る日にだけ、やってくる女なのよ」
 不思議なことを言う。変わったところのある子だった。
 しずくの泉を飲んだ。僕の舌が音を立てた。
「ああ、こんな、こんな」
 差し伸べる僕の手に、しずくの指が絡んだ。
「からだが浮く。こわいわ」
 僕の顏にしずくの腰がぶつかってきた。そのまま逝かせた。愛おしかった。
 僕もためらわなかった。しずくが、自分よりも経験豊富であることは、疑えなかった。導きに身をゆだねた。
「あなたは、自分勝手だから」
 元の彼女の声が、耳に鋭く蘇った。それを否定するために、いや、ひたすらしずくのために、動いた。
 いわゆる床上手だった。よろこびを感じ、それを全身で表現することを、ためらわなかった。声を出しても、雪の宿できくものはいない。女将の一階の部屋までは、遠かった。
「あたしを、さがす必要はないわ。あたしの方から、会いにいくから」
 しずくが、うわごとのようにつぶやいた。
「時間は、あたしには、関係ないから」
 しずくのからだは、白いふとんの中で、どこまでも大きくなっていた。雪の山だった。僕は、白い二つの山に登った。白い腹部の高原をさまよった。黒い森の中で迷った。谷間に下りて行った。洞窟に中に入っていった。中に不老不死の隠れ里があった。そこで、長い年月をすごした。

7・夢の後へ

 朝になった。しずくは、もういなかった。冷たいふとんには残り香もなかった。
 雪が止んだ。橋が開通した。
 僕は、その日のうちに、ようやく、やってきたバスで、村を去ることになった。
 数日間だと思っていた僕の滞在は、実は二週間を軽く越えていたのだ。時間が飛んでいた。
 群衆の端で、女将と土左衛門老が、手を振って見送ってくれた。村人たちが、開放の喜びでごったがえす中に、しずくの姿は、なかった。
 帰京した僕は、軍法会議にかけられた。
《静山荘》は、この秋に火災で全焼していた。女将と老人の遺体は確認されなかった。裁判で証拠の写真も見た。
 三週間近く、自分はどこにいたのか。雪山で生存できるはずがない。装備がなかった。身の潔白を証明できない。敵前逃亡に等しい。
 有罪となった。
 一年間の禁固刑だった。
 そして、戦争が来た。
 敗戦になってから、あちこち手をつくして、しずくをさがした。遂に見つからなかった。
 乳頭温泉峡は、さまがわりしていた。《静山荘》のあったところには、近代的なホテルが聳えている。
 灰色の着物の少女が、道ばたで銀茸を売っている。青い猫が鳴いた。

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