あなたの先祖はいつから? 私は文久2年から。

著:椎名小夜子

 現代日本の核家族世帯が多い状況では自分の祖先をどこまで遡れるものだろうか?
 こういうご時世に於いてなんとも幸運な事に、私は父側も母側も、わりとはっきり家系図が残っている。
 これから語る事は、本州最北端の地に住む母方の祖父から直接聞いた話だ。
 便宜上、祖父の名前は以下「K崎 敏夫」としておこう。
 この随筆には祖父を始め「K崎」という人物が登場するが、全て仮名だという事を此処で予め明言しておくこととする。
 それはそれとして、文久2年(1862年)は父方の血筋の話だ。新撰組ではない方の寺田屋事件が起こった年に、同じく本州最北端の地の、西沿岸部に腰を落ち着けていた。

 **

 2018年で84歳になった私のじいさんは、話が上手い。昔から大層良く口が回った人だ。
 本筋とは関係無いのだが、敏夫じいさんの話上手を端的に表したエピソードを紹介しよう。
 2016年頃だったか、近所に住んでいるじいさんの親友が他界した。徒歩で2~3分くらいの距離だったから家族ぐるみでの付き合いがあった人であった。
 じいさんはとても哀しんで、親友の通夜に参加した。そこで、親友の遺族からこう言われたという。
「敏夫さんさあ。あんねえ、お願いがあるんだばって、葬式さも参列してくれねぇが。一般ででは無ぐって、親族席の方でさ」
 敏夫じいさんは答えた。
「ああ、良いど良いどー。俺だっきゃ、何処の席でも気にしねェ人間だンだ。……だげども、なしてまた、親族席で?」
 親友の遺族は大層気まずそうにしながら
「……実は、故人が顔が広い人だったもんで、やれ友人だ、やれ遠縁の親戚だってのが、沢山いるんだわ。こっちも連絡しねえと気まずいから連絡するんだけれども、おらだち家族にとっては全く初対面だったり全く知らねえ人だったりして、何をどう話したらいいんだかって困ってしまってらんだ。だはんで敏夫さんだば、何かと話が上手えし人見知りもしねえがら、親族席さ居で、おらだちの代わりにその人らと話っこでもしていで欲しいんずさ」
と、困惑混じりの事情を告げた。
 それを聞いた敏夫じいさん、それ以上の詳しい話は聞かないで二つ返事であっさり快諾。親友といえども他人の葬式でただ一人何故か親族席に混じり、事情を知らぬ近所の住人らをこれでもかと戸惑わせ、最終的にはなんだかんだで初対面である故人の友人ならびに故人の遠方の親戚らと見事なまでに話を盛り上げ帰ってきたそうな。

 **

 これはその母方の祖父にあたる敏夫じいさんから聞いた話だ。
 じいさんは、本州の最北端の県の西側、平野部に住んでいる。
 当たり障りがない程度に近所の有名人を挙げるなら、近い順に太宰治・吉幾三・寺山修司といったところか。
 K崎家は、そこで代々専業農家をして暮らしていた。
 その地域において、K崎家はそれなりに大きな家であった。太宰治の生まれし津島家と比較すると所詮可愛い程度だが、それでも土地を持っていたものだから小作人を雇うなどをして農業で生計を立てていたという。
 そのK崎本家から分家したのが、敏夫じいさんの父の代だ。
 敏夫じいさんの父は若くして他界したが、本家の土地とは別に自分自身の土地を持っていたので分家した後でも引き続き専業農家として生活していくことができていた。

 このような背景をもつK崎家。
 その本家の家屋の裏に、小さく苔が生えた石碑がある。本当に小さくて、子供の腹くらいの高さだっただろうか。幼い頃に一度だけ見たことがある。180mlのファンタと、個包装された菓子が添えられていたことを覚えている。墓場ではなくて、記念碑のようなものだと亡き祖母が教えてくれた。
 大人になってからもう一度見てみたいと思っても、毎回時期が悪くていつも雪に埋まっている。その辺りは、なかなか上手くいかないものだ。
 その石碑には、K崎家の初代当主の名前が書かれている。
 その名を九右衛門、「K崎 九右衛門」と言った。

 この九右衛門とは、いかなる人物なのだろうか。
 祖父、そして亡き祖母の姉妹などから話を聞くに、九右衛門は青森県外(津軽藩外)から来た人物であるという。津軽平野に腰を落ち着けてから「K崎」という姓を名乗り始めたと言う者もいれば、来訪時から「K崎」という名字だったという者もいた。
 ただ、敏夫じいさんや親戚らに話を聞くと、どうにも「K崎」という名字は、津軽藩に古くから存在したものではないらしいという ――つまり、外部から持ち込まれた姓であるという認識だ。
 親戚のじいさんばあさんの中には半信半疑の昔話としながらも「昔は福島や東京の方に居た人たちが北上して、津軽平野に移り住んだ」と私に教えてくれた。
 この「K崎」という姓は、今でこそ全国各地に多い名字ではあるが、親戚や近所の高齢者の話を中心に調べてみると、どうにも「清和源氏流」「藤原利仁流」に関わるらしい名字だという認識が根底にあるようだ。
 平安時代に大きな権勢をもった源平藤橘のうち源氏または藤原氏から派生した名字が九右衛門の姓である「K崎」なのである。……と、信じている高齢者が割といる事に驚かされる。

 この辺りから既に壮大で、かなり信憑性が疑われる話になってきている。

 しかし、我が祖父たる敏夫は、その説を強く信じてやまない。
 そして、私にこう告げた。
「この九右衛門はなあ、あれだァ、落ち武者よ。源平合戦で負けて負けて、宮城から岩手の方を回って、ずーっとこっちの方まで逃げできたンだど」

 本家の裏に存在する石碑を確認できない為に、九右衛門の生没年などは一切わからない。
 だが整理すると
「石碑が存在すること」
「親戚らが(半信半疑ではあるものの)自身の親などから聞いてきた話であること」
「特に本家筋の中高年の男性に『九』という字を持つ人間が妙に多いこと」
 この三つは、どうにも物質・知識・命名基準として存在している。

 祖父の話はまだ続く。

 九右衛門が源平合戦の落ち武者で、平安時代に福島・宮城・岩手と逃げて奥津軽までやってきた時、彼はひとりではなかった。同伴者がいたのだ。
 その名は「K崎 五右衛門」。同じ「K崎」という名字だが、九右衛門と五右衛門に血縁関係は無いらしい。
 五右衛門は九右衛門が居を構えた場所の、隣の集落に居を構えた。
 実際に、現在でも、五右衛門がいたらしい「隣の集落」には「K崎」という名字が多い。多いというよりは「集まっている所」がある。
 そして、そこに集まる「K崎」さんたちには、K崎敏夫の親戚ではない人も結構多い。
 現代で親戚かどうかはあまり当てにならない話だが、敏夫じいさんは「血筋が違う」とはっきり言った。

 祖父の話をまとめると
「源平合戦の落ち武者二人が奥津軽まで逃げ延び、そこに居を構えて農耕を始めた。そのうちの一人、九右衛門こそが、我がK崎家の初代当主である」
 ということだ。

 特に深い意味も無く己の家系について聞いていたら、どうにも平安時代まで遡る壮大で信憑性の無い、とてつもなく胡散臭い話になってしまった。
 けれども、頭から否定するにも根拠が足りない。
 だけども、肯定する根拠なんか、もっともっと足りない。

 仕方ないので専門ではないけれども津軽平野の歴史をちょっとだけ調べてみる。
 湿地帯の多い津軽平野の開拓が行われたのは江戸時代中頃だ。
 しかし、九右衛門と五右衛門が居を構えた地域は湿地帯でもまだ人が住める範囲であったと思われる。それは縄文時代の遮光器土偶の出土、12世紀頃の防御性集落の跡から推測できる。

 では、農耕は行われていたのだろうか?

 津軽平野は北部に十三湖なる大きな湖があり、其所は中世「十三湊」なる古代都市があったという伝説がある。これは平成以降の調査によって10万人以上の人口を抱える巨大都市で、東京・大阪・京都に次いで日本で4番目に大きな都市であったと推測できたらしい。素直に耳を疑う。
 津軽平野部から更に西にいった海沿いの地域では北前船などで京都と貿易をしていた事実もある。
 話を再び農耕に戻すと、津軽平野は十三湊の象徴であった十三湖に近付くほどに湿地帯が酷くなっていったらしい。
 北津軽の田園は「腰切り田んぼ」と呼ばれていた。
 田植えをする為に田んぼに入っていくと、ずぶずぶと腰の辺りまで沈んでしまい、上半身しか見えなくなる。その様がまるで腰から下を切り落としたみたいだからからというのが名前の由来らしい。
 しかし「腰切り田んぼ」という名称で呼ばれていたという事実があるのでは、その湿地帯でも田植えが行われていたという証拠(?)になってしまうのではないのか……?
 改めて地図上で確認すると、九右衛門・五右衛門が移り住んだ地域は平野の中心から北西部といった辺りなので、十三湊とはそれなりに距離がある。
 むしろ、人が住んでいたという記録が明確に残っている五所川原市街地にほど近いと言って良い。
 開拓が進んだ現在では、山並み街道・メロン街道(別名:ミサイル道路)を有する津軽平野の中心部に、湿地帯の面影はあまり見られない。あまり。
 
 
 だから、もしかしたら、本当に、源平合戦の落ち武者は奥津軽まで逃げ延びて農家に転職したのかもしれない。
 そして、もしかしたら、本当に、ふたつのK崎家の土地は湿地帯ではなかったかもしれない。
 

 信じられない話だが、津軽藩・弘前藩が置かれる以前の古代~中世にかけての津軽平野の資料は乏しく、あるいはとても細切れであり、地図と伝聞に偏った調査になった。

 行き着く結論という名前の可能性。

 
 源平合戦の落ち武者のひとりである「K崎 九右衛門」の血が、祖父であるK崎敏夫を経由して、私、椎名小夜子に流れているかもしれないということ……――。

Scroll to top