もう一つの平泉史――岩手と宮城に奥州藤原氏の幻の家臣・照井太郎を追う

著:劇的なチャイナ

奥州藤原氏と記録にない男

 2016年4月から9月まで、私は宮城県の仙台市で過ごした。本来は日本の最南端の南島の住人である。
 なぜ南の島から北の都仙台に来たのかと言うと、奥州藤原氏にはまった末の奇行だった。

 奥州藤原氏は12世紀、平安時代末期に今の岩手県県南にある平泉町を拠点とし、初代藤原清衡,二代基衡,三代秀衡,四代泰衡と約百年に渡り、福島から青森まで東北一帯を治めた豪族である。産金と馬産,北海道などの北方貿易によって繁栄し、日本国内にあって半ば独立した独自の政権を築いていた。建物の全てに金箔を施した金色堂をはじめ、中尊寺や毛越寺、無量光院など浄土思想に基づく多数の寺院と庭園を造営し、その遺構は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産に登録されている。
 だが、文治五年(1189)、その繁栄も平和も鎌倉幕府を開く源頼朝による奥羽侵攻(奥州合戦)によって、あえなく滅ぼされた。
 
 前九年合戦(1051~1063)と後三年合戦(1083~1089)という古代東北の悲惨な戦乱を生き残り卓越した政治的センスで繁栄の基礎を築いた初代清衡、友を失いながら年上の妻と手を取り合って奥州藤原氏の地位を盤石なものとした二代基衡、平泉の最盛期を築き偉大な政治家として源義経を庇護した三代秀衡、理不尽な戦の中で抗いながら平泉の滅亡を背負った四代泰衡……。
 長く都の欲望によって戦火に翻弄されてきた東北の地にこの世の浄土を出現させようと試み、都の干渉を排しつつ現地の武士団をゆるやかに統合して百年の平和を実現し、北海道などの北方世界を含む広大なネットワークを出現させた。
 四人の当主のドラマチックな生き方はもちろん、東北の地に根ざした政権のあり方も、躍動する北方世界の歴史も私を魅了してやまなかった。

 とは言っても、年に一度くらい旅費を貯めて平泉旅行に行くのが、南島の住民としてはせいぜいな話である。
 奥州藤原氏を扱った歴史研究の動向はチェックしていたし、全国どこでも出版社から出た書籍は手に入る。だが、一方で限界も感じていた。
 私は歴史学的な観点から考え、伝説の方はあまり関心が無かった。いかにも荒唐無稽で「黄金の国」とか「北方の王者」とかステレオタイプなイメージに彩られた伝説を排し、文献史料や考古学的成果に基づく研究成果こそ大事にするべきだと思っていた。
 しかし、だんだんと、そもそも奥州藤原氏を深く理解するには、地元で語られた伝説や東北の風土を理解しなければならないのでは? と思うようになっていった。

 折りよく、今までの仕事を辞めることになり、いっそ半年ばかり東北で働いてみることにした。事情があって地元をあまり離れられないのだが、半年だけなら何とかなった。
 そうして仙台で短期の仕事を見つけ、一時的に向こうに移ると、休みのたびに東北各地をまわり、あるいはその地元でしか手に入らなさそうな郷土資料を漁る日々をすごしたのである。半年で東北の風土を理解できたなどととても言えないが、大いに勉強になった。

 そして東北各地を旅し、伝説を収集する中で、奇妙な人物の存在に気がついた。
 
 その名は、照井太郎。

 三代目秀衡から四代目泰衡の時代(つまり平泉が滅亡するまで)に藤原家の重臣であったという。
 どういうわけか岩手県南部から宮城県北部にその名と業績に関する伝説が色濃く残っている。

 例えば平泉で死んだ源義経や弁慶の伝説は、義経北方行に代表されるように東北各地にあるが、彼が日本史上最も有名で全国規模の英雄だと考えれば納得いく。
 また奥州藤原氏にまつわる伝説も多いが、地元に実在した重要人物であるなら当然であろう。さらに伊達政宗の伊達氏をはじめとする東北の戦国大名は、奥州藤原氏の後継者を任ずることを己の東北支配の正統性の一つの根拠としたという説も提唱されており、だとすれば後世の彼らの思惑によって伝説が受け継がれ、多く残されたということもあっただろう。
 だが「照井太郎」はそのどれにも当てはまらない。全国規模で有名な人物ではないし、戦国大名たちの正統性に資するような人物でない。それでもその名が局地的に色濃く残っているのである。

 しかも奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府編纂の史書『吾妻鑑』には、その名はまったく出てこない。
 奥州藤原氏に関する同時代の文献史料は著しく少なく、学問的作法に則って歴史を研究する人々は『吾妻鑑』を平泉に関するほぼ唯一の信頼できる一次史料として扱っている。

 『吾妻鑑』には、奥州合戦時に鎌倉軍と戦った東北の武士達の名が複数あがっており、それに基づいて奥州藤原氏の主従関係や東北武士団の実態解明が進められている。
 だが、照井太郎の名は一文字もないため、研究者の間で彼の名があがることはない。私も歴史研究者が書いた内容に信頼がおける本でその名を見たことがなかった。信頼できる史料に書かれていない人物を実在する者として研究者が扱うわけにはいかないのは当然のことである。
 江戸時代に相原友直という学者が、できるだけ信憑性のある史料を揃えて著した『平泉雑記』には、「照井がこと、吾妻鑑には見えず」と済ませている。信頼できる歴史を書こうとする者の対応を象徴しているかのような一言だ。

 私も近代的な歴史学の洗礼を受けた身として、伝説をそのまま信じることはできない。
 一方で、史料がないから、という理由でそんな人物などいない、と言ってしまって良いのだろうかとも思う。本当に実在していたとしたら、彼(ら)の存在を勝手に否定してしまうことになる。実在しないとしても、後述するようにこれほど多くの伝説によって形作られた「架空の生」をどう捉えれば良いのだろう。
 「吾妻鑑には見えず」で済ませるのとは別のアプローチを探ってみたいと思う。

二人の照井太郎

 岩手と宮城の伝説をあわせると、「照井太郎」と呼ばれる男は二人おり、さらにそれぞれに「照井太郎」の名を継ぐ男児がある。

 一人は照井太郎高春といい、三代秀衡と四代泰衡の時代に奥州藤原家の家老を務め、照井堰用水路を築いた人物である。息子もしくは何代か後の子孫に照井太郎高安(泰)という人物がいる。「高治」「高晴」とも表記されることがあるが、ここでは「高春」で統一する。
 もう一人は照井太郎高直という男で、同じく三代秀衡と四代泰衡の時代に平泉の武将であり、奥州合戦直前に宮城県南に多くの城を建設し、奥州合戦では平泉軍の副将として討死した。「照井太郎」という息子がおり、後に酒造りで財産を築き照井長者と呼ばれたという。

 この一帯の自治体誌や郷土史家も、この活躍した時代が重なる二人の照井太郎の関係について悩んでいる。多くは高春と高直を同一人物と扱い、「春」と「直」はどちらかが誤伝としている。
 しかし伝説上の二人の資質の違いを見るに、別人と考えたほうが良い気がする。さしずめ高春の息子が高直か、あるいは照井一族という一族内の年長者と年少者だろうか?
 その一方で、これほど資質の違う二人が、同一人物である可能性も否定されないと思う。

 ただ、ここではとりあえず二人を別人としたうえで、ゆかりの伝説を紹介しながら、その生涯に迫ってみる。

照井太郎高春

(1)――藤原家の重臣として

 毎年1月1日の0時過ぎ、平泉の東にある一関市東山町松川の磐井清水と呼ばれる湧き水には、厳寒にも関わらず白装束に身をつつんだ多数の老若男女が集まってくる。これから徒歩で約20キロ離れた平泉中尊寺の金色堂に磐井清水から汲んだ水を奉納しに行くのである。金色堂は奥州藤原氏から残る唯一の建造物で、金箔をくまなく貼りつけた皆金色の阿弥陀堂である。藤原家当主の葬堂でもあり、堂内の棺の中にはミイラ化した藤原四代の遺体が今でも安置されている。
 これは約800年前、三代秀衡がこの松川の湧き水を好み、新年最初に飲む若水をここから運ばせた故事を再現する「磐井清水の若水送り」というイベントなのである。出発前、平泉からの使者役が運び手たちに秀衡の言葉を伝える。使者の名は照井太郎高春、秀衡の家臣で「長坂城」の城主であった人物としてとこのあたりでは伝わっているらしい。

 「長坂城」とは、同じく一関市東山町長坂にある唐梅館跡とされている。ここの城主である高春が藤原家の家老であったため、元は「家老が館」だったのが変化して唐梅館と呼ばれるようになったとのこと。史実としては、平泉滅亡後に東北に進出した長坂千葉氏の居城であるが、伝説の世界では最初にここに館を築いたのは高春となっている。

 そして、平泉の南に位置する一関市(一関市は平泉町の東西南三方を囲むような自治体)花泉町の永井にあった青葉山城跡、別名六本松城も高春の館であったという。しかし文治年間(1185~1190)に弟の照井次郎にこの館を譲り、己は同じ花泉にある二桜館に移った。高春の居館伝説は岩手県県南を中心に多い。

 しかし、彼のメインの館は平泉のすぐ北に位置する奥州市前沢の照井館であろう。今でもそこは照井館(てるいだて)という字名として残っている。
 小高い丘の上にあり、下を流れる徳沢川によって防御され、藤原家の菩提寺である平泉の中尊寺,千本の桜が美しかったという束稲山,水運の大動脈・北上川を見渡せるという家臣としてはこれ以上ないほどの立地に館を構えていた。
 私も平泉でレンタルサイクルを借りて、その照井館という地名を頼りに行ってみたが、往時の面影を感じる遺構はもちろん何もない。だがその眺望の素晴らしさと平泉の重要地点とのアクセスの良さは、高春という男が実在したならば、確かに藤原家の相当の重臣であったことを理解するに十分であった。

(2)――照井堰用水路

 しかし、照井太郎高春の一番の功績は照井堰用水路の開削であろう。

 当時の平泉は都に継ぐ繁栄ぶりで、その人口は10万人に達していたと伝わる。10万という数に実は根拠はないのだが、都に継ぐ人口を有していたことは確実である。
 人口が増えると食料問題が出てくる。平泉の西には新田を開墾するに適した一関の平野が広がり、栗駒山を源とする水量の豊富な磐井川が流れていたが、農作に適した平地の遥か下を流れていた。当時の技術では低所から高所に水を運ぶこともできず、農業用水としては使えない川であり、下流の村々は水不足に悩むほどであった。この磐井川の水を利用できたら、どれほど生産力が上がることだろう。

 そこで高春は上流付近で川を開削し、水の一部を用水路に流して一関の平地を灌漑することを計画した。この計画は秀衡の支持を得て十分な資金を補償された。高春は平泉の西、今でも風光明媚な景勝地である厳美渓近くの五串という地点で川を開いた。だいたい1180年前後だという説もある。おりしも源頼朝が旗揚げし、源平の合戦が始まった頃である。

 
 工事は難航し、用水路の建設に失敗し続けた高春は、高台に祭壇を作り五穀の神である伏見稲荷大明神に祈願を行った。すると、工事の難所が無事に解決したのである。深く感謝した高春が勧請したのが、平泉の少し南に位置する一関市山目町にある稲荷神社だという。
 一ノ関駅と平泉の中間にある山ノ目駅からほど近い場所にあるというので、平泉を訪れたついでに寄ってみた。ごく小さな神社であったが、境内に摩多羅神を祀っているのに驚く。
 摩多羅神は古くは念仏修行の守護神として天台宗系寺院に広く祀られていた唐渡りの神であるが、現代では祭祀の場所はめっきり少なくなってしまっている。その数少ない摩多羅神を祀る寺社の一つが、奥州藤原氏二代目基衡が建立した平泉の毛越寺である。毎年一月二十日に行われる二十日夜祭では、夜遅くまで僧侶が延年の舞などの芸能を奉納する。
 しかし、この稲荷神社でも摩多羅神を祀っているとは知らなかった。摩多羅神は平泉周辺では農業神の性格が加えられているから、稲荷神社に祀られているのも分かる。
 高春ゆかりの神社がこのような形で毛越寺と繋がっているとは感慨深い。入口の掲示板に貼られていた<危険! 熊に注意!>という張り紙の恐怖も薄れる……というわけではない。

 ところが、用水路の完成を見ぬうちに奥州合戦が起こり、平泉は滅亡してしまう。
 平泉滅亡時に高春がどうなったかは、伝説上でもはっきりしない。家老として主家と運命を共にし亡くなったという話と、生き延びて鎌倉の支配下でも用水路の建設を続けたという話の両方がある。どちらかと言うと、前者の話の方が流布している印象である。
 どちらにせよ、高春は用水路の完成を見ないまま志半ばで亡くなってしまった。

 高春亡き後は、その息子である照井太郎高安(泰)が父の遺志を継ぎ、私財を投げうって水路を完成させた。
 この時に高泰を援助したのが、水路が通る予定であった一関の荻荘という地の荘司・赤荻良親であった。実はこの良親は平泉の最後の主で、奥州合戦の敗北で命を落とした四代泰衡の息子だという。この子孫の話によれば、幼き時は鎌倉の目を逃れて逃亡していたが、命は奪われないこととなり、紆余曲折あって荻荘の荘司におさまったのだという。
 良親が泰衡の息子だという証拠は何もないのだが、泰衡の息子と高春の息子が亡父の遺志を継ぎ、平泉の夢が潰えた後でも民百姓のための水路を作ったという話は感慨深いものがある。

 もっとも、この照井太郎高安は高春の息子ではなく、二百年後の子孫だという話もある。それによれば、高春は最初に堰を計画,着手した人間だが、今につながる照井堰は、明応二年(1493)に子孫の高安が厳美渓の奥の五串あたりで磐井川を開削したことにはじまるという。この時に高安を援助したのも荻荘荘司だが、名は大江次郎信治といった。
 

 高春が最初に堰建設に着手した時、水路はどこまで完成していたのかさえ分からない。しかし以後八百年、水を求める人々によって絶え間なく拡張と改修が行われてきた。今では三つの水路に分かれ、一関市西部を横断しながら水田の灌漑を行った後、北へと向きを変えて平泉に至る。毛越寺や観自在王院跡の復元された浄土庭園に水を供給し、町の北端に位置する中尊寺がある関山の下を流れて、山向こうの衣川に落水する。総長は64kmにも及ぶ。
 中尊寺の下を流れている小さな流れが、照井堰用水路の一部だと知った時の感慨はひとしおだった。

 
 平泉の南東に位置する一関市中里の磐井川近くには、高春の功績を称えて後世に彼を祀った照井神社がある。もともとその地には高春の墓と伝わる五輪塔があり、調査したところ成人男性のものと思われる遺骨も出てきた。
 神社の中には

    尽きぬ恩 流し尽きぬ照井堰 黄金の稲穂
 
という歌が献書されているという。もちろん黄金の平泉文化と稲穂の色をかけたものであろう。
 私がその神社を訪れた時は小雨が降っていた。不思議と高春ゆかりの地を訪ねる時は雨になることが多い。
 入口に立つ案内版には「用水の神照井神社」とある。
 神社は住宅街の中にあるごく小さいものであったが、本当に磐井川のすぐ傍らにある。残念ながら堤防によって神社から川そのものは見えないが、川の気配は充分に感じられる立地であった。

 照井堰開削の地である一関市厳美町の五串の山中にも、高春の功績を称える照井水神の祠というのがある。これは昭和になってから照井土地改良区という水利組合によって設けられたもので、高春の他、高安や赤荻良親など照井堰の継承に関わった人々も合祀されている。
 祠は厳美渓の奥、小高い丘の上にある。入口にある黒い標識に「照井水神」とあるのが、印象的である。高春は照井神社では用水の神となり、さらに水神となったようだ。
 今でも4月末頃に照井土地改良区によって安全祈願などの祭祀が行われている。私が5月初めに訪れた時には草も刈られ、山中であるにも関わらず随分きれいにされていた。鳥居はあっても社らしい社はなく、先人供養碑と小さな石の祠だけがあった。それでも、ここからは磐井川がよく見え、高春が祀られるにふさわしい場所に思えた。私がここを訪れた日も、断続的に小雨が降っていた。

照井太郎高直

(1)――築城と治水と

 照井太郎高直はしばしば築城伝説とともに語られる。

 彼が築城したと伝わる代表的な城は、宮城県大崎市の丸山館,同登米市佐沼の鹿ヶ城,同東松島市矢本の照井城,岩手県奥州市水沢の跡呂井城、などである。丸山館以外は文治年間の築城と伝えられ、先の高春も文治年間に館の移動を行っている。文治年間は源平の合戦が終結し、勝者となった源氏が奥州攻略の野望を露わにしはじめた緊張した時期であったことと関係があるのだろうか。
 

 そもそもの拠点は大崎市岩出山の丸山館。別名照井城とも言われる。西大崎駅近くの小高い山の上にあり、連結式の城郭跡があるようだ。
 私は西大崎駅まで行ったが、トラブルで日が暮れかけててしまい訪問することはかなわなかった。代わりに同駅から徒歩10分以内に高直が勧請した大崎八幡神社があるので行ってみた。仙台にある伊達政宗ゆかりの大崎八幡宮とはまったくの別物である。
 勧請年代は承安年中(1171~1174)で、高直が丸山館を築いたのに合わせて、三代秀衡の命によるものであるとされる。
 寿永年中(1182~1184)、かつて平泉で預かり今は源平合戦に参戦している源義経の武運を祈るため、秀衡によって神鏡が奉納されたと伝わる。ただ、宮城県の神社庁が出している『宮城県神社名鑑』では秀衡による奉納とされているが、実際に神社に行ってみると、入り口にあった案内板には四代泰衡の夫人による奉納と書かれていた。
 奥州藤原氏は源平合戦に対し、中立を守っていた。いくら平泉と縁が深い義経に対してであれ、平泉の主である秀衡や後継者の泰衡自身が源氏方武将の武運を祈るのはやはり憚りがあるのではないか。
 対して女性である泰衡夫人であれば、その裏に夫や舅の意思があったとしてもあくまで女性の個人的な行為ということになる。「女人の沙汰」と言って、公的に高い立場にいるためうかつには動けない男性の意を汲んで、あくまで私的な行動としてその母や妻が交渉の場に出たりすることも当時はあった。
 そう考えると、神鏡を実際に奉納したのは泰衡夫人の名義だが、そこには義経の武運を祈る秀衡か泰衡の意思があったと見るべきだろう。その神鏡は、今でも社宝として保存されているという。

 登米市佐沼にある鹿ヶ城、別名佐沼城(または佐沼要害)もまた小高い丘の上にあり、高直築城伝説の中で最も有名な城と言える。城の東に迫川が流れ、西に沼があるという水城であった。築城の際に、鎮護のため鹿を生き埋めにしたため鹿ヶ城と呼ばれている。今では鹿ヶ城公園となっており、迫川を見下ろすことができる。
 城の敷地内には高直が勧請したという照日権現社があり、天照大神を祀ったらしい。しかし、照井と照日が似ていたためか、いつの間にか人々の間で照井権現社、またはお照井様と呼ばれるようになり、高直を祀る神社だと認識されるようになったという。
 
 
  高直が城を築く時の特徴として、ほぼセットで神社を勧請している。丸山館では大崎八幡神社,鹿ヶ城では照日権現社、そして東松島市矢本の照井城でも須賀神社を勧請している。やはり高直の館は軍事拠点の意味合いが強く、より神の力による鎮護を必要としていたのかもしれない。

 その他にも、特に築城とは関係ないが、宮城県栗原市有壁に熊野神社を勧請し、同じく栗原市一迫真坂字十日市に阿弥陀堂を建立したと伝わる。
 岩手県と宮城県の境にあり、往時は平泉のお膝元の範囲であった有壁の熊野神社には訪ねたことがある。駅から近いのに「熊注意」の貼り紙があちこちに貼られている道を怯えながら地図を頼りに進んだが、神社らしきものはどこにもない。困って運よく通りかかった地元の人に訪ねると、傷みが激しいので一時的に社は解体し、石宮になっているという。
 教えてもらった場所には確かに鳥居と真新しい石の祠のみがあった。高直が植えたという樹齢800年以上の桜の巨木もあったはずだが、つい数年前の嵐で倒れてしまったという。祠の傍らに朽ちかけた巨木の根元だけが残っていた。

 何かと築城伝説が目立つ高直だが、実は治水の人でもあった。
 栗原市から東隣の登米市にかけて流れる迫川流域は水害常襲地帯であり、宮城県屈指の難治河川と言われている。
 その支流の一つであり、栗原市西部の花山地区や一迫町を流れる一迫川は、明治になるまで照(輝)井川と呼ばれていた。これは、高直がこの川の治水事業に取り組んだためだという見方もあるという。
 「当時の英雄照井高直は、武の人以上に、治水安の人とも伝えられた、一迫川の洪水氾濫を鎮め民百姓の生活に大いに力となった人として尊敬の高い伝説である」(『「炎立つ」とわが町』)、「その後一迫川が照井川と称され、水神とあがめられて照井氏の世を永く語り伝えている。」(『一迫の民話 第2集』)と書いている郷土史家もある。

 栗原市内にはことに照井氏ゆかりの地名が多く、本拠地の丸山館より少し北にある一迫町には輝井囲、字輝井などの地名が残り、その東の沢辺地区には照井沢の地名があるという。さらにもう少し東の同じく栗原市内の若柳地区では「照井様」というインパクトある名のバス停まであるほどである。なんでも照井様あるいは照井権現と呼ばれる祠があるようである。
 「照井様」以外は地図上で確認がかなわなかったが、一迫町,沢辺,若柳は一迫川から迫川の川筋に沿うように並んでいる。登米市の鹿ヶ城も迫川のすぐ側にあった。
 もっともこれら照井地名がすべて高直由来とは限らず、他の照井一族も絡んでいるのかもしれない。先の照井川の由来も、高直の治水事業を称えてというより、後世になっても残っていた照井地名にちなんだものという見方もある。

 築城伝説や神社勧請伝承、照井地名は宮城県大崎市,栗原市,登米市に集中しており、高直の、もしかしたら照井一族の本拠地はこのあたりと見ることができそうだ。
 この三市はすべて岩手県県境と接する隣接しあう地域で、かなり広大な範囲を占める。これに高春の伝説を合わせると、宮城県北部一帯と岩手県南部の一部が照井一族の勢力範囲となり、照井王国というにふさわしい。
 そしてこれら照井氏の勢力範囲を地図上で見ると、南から敵軍が平泉に向けて北上して来た時に、それを遮断する厚い壁のようにも見える。

(2)――奥州合戦の武人

 さて、「 武の人以上に、治水安の人」とも言われた高直にも、頼朝の奥州侵攻により戦の場に赴かねばならなくなり、それにともない高直伝説も南下する。その伝説に触れる前に、史実としての奥州合戦についてまとめておく。

 文治五年(1189)、源頼朝と対立し平泉に逃げ込んだ源義経を引き渡せねば「討伐」するという鎌倉の圧迫に耐えかね、四代目当主となった泰衡は義経を自害に追い込み、鎌倉へ恭順の意を示す。ところが頼朝は義経を匿っていた罪は消えないとして、朝廷の制止も聞かずに、南は鹿児島に至るまで東北以南の全国の武士を動員し、かなり強引に奥州侵攻を行う。
 実は源氏は約百年前から奥羽へ進出する野望を抱き、前九年合戦や後三年合戦と東北を戦乱の渦に巻き込んだ二大動乱に介入したものの失敗し、かえって奥州藤原氏の勃興を促す結果となっていた。奥州攻略は源氏累代の野望だったのであり、また頼朝が鎌倉に武家政権を建てるためにも奥州藤原氏は滅ぼしておきたい相手であった。義経のことは口実にすぎず、その口実がなくなったので理由もなく開戦に踏み切ったのである。

 平泉方は大軍が北上してくる時に必ず通らねばならない今の福島県国見町に二重の堀と三重の土塁を持つ長大な阿津賀志山防塁を築き、泰衡の異母兄である藤原国衡を総大将に応戦する。奥州軍は圧倒的多数の鎌倉軍に対し、三日に渡って善戦したが、奇襲によって戦線が崩壊し、総大将の国衡も撤退中に討ち死にしてしまう。
 奥州軍はすぐに金十郎,赤田次郎,勾当八という武将を新たに総大将とし、阿津賀志山防塁が破られたその日のうちに撤退する兵をまとめあげ、今の宮城県蔵王町の根無藤と四方坂で北上してくる鎌倉軍に抵抗する。その戦いぶりは総大将国衡を失っているにも関わらず、「 凶徒(奥州軍)の闘志は衰える気配が無い。奥州の兵たちが続々と集ってきたので、根無藤と四方坂との中間において、両軍の一進一退の攻防は七回にも及んだ」と『吾妻鑑』に書かれるほどであった。
 しかしやはり多勢に無勢でその日の夕方までには、金十郎が討死し、赤田次郎と勾当八は生け捕りとなった。鎌倉軍は兵の一部を出羽(山形・秋田)方面にも派遣しており、ほぼ同じ頃に出羽の平泉方の武将である田河太郎行文,秋田三郎到文が討死、由利八郎維平が生け捕りとなり、勝敗が決していた。

 泰衡は平泉を放棄し、北へと撤退したが、途上で家臣の裏切りに遭い、非業の最期を遂げた。享年は35歳とも25歳とも言われる。
 ちなみに、この時に泰衡が平泉の町に火を放ち、金色堂を除いて三代が築いてきた寺院群をはじめ平泉は灰燼に帰したという話があるが、これは俗説である。確かに『吾妻鏡』によれば、泰衡が政庁である「平泉館」に火を放ち焼失させたことは読み取れるが、たとえば中尊寺は1337年に、毛越寺は1226年に、観自在王院は1573年に失火で焼失しており、泰衡が燃やしたのでないことは明白である。特に街中にある毛越寺や観自在王院がこの時には燃えていないことから、平泉全体もほぼ無傷であったことが推測できる。

 と、ここまでが『吾妻鑑』に記されている合戦の様子であり、「歴史」の話である。

 ここからは『吾妻鑑』には一切書かれていない、それゆえに史学の立場としてはあったことにはならない照井太郎高直の戦いの物語である。

 まず一部の郷土史では、高直を奥州軍の副将としている。ここからして歴史とは齟齬を生む。
 『吾妻鑑』は勝者の記録とはいえ、敵のどのような武将を討ち取ったり生け捕りにしたりしたかは参戦武士達の恩賞問題に関わることなので、はっきりとした記録が残る。高直が副将という高い立場にあるなら、『吾妻鑑』に記録されないのはやはりかなりおかしい。

 さて、史実の金十郎が蔵王町で陣を立て直したのと同じ頃、高直はその東にある宮城県村田町と柴田町の境にある韮神山に依って再び兵をまとめ、鎌倉軍を迎え撃った。韮神山は標高96mの小高い山であり、今もすぐ近くを東北本線が通る交通の要衝である。背後には仙台平野が広がり、ここを抜かれると平泉まで一気に鎌倉軍がなだれ込むこととなる。
 地図を見ると蔵王町の根無藤・四方坂と韮神山はおおよそ横一線に並び、連動の意図が感じられる。福島の第一防衛線が崩壊した後は、この宮城県南部を第二防衛線とする計画もあったのかもしれない。
 
 戦場となった村田町,柴田町,大河原町には今も多くの合戦伝説がある。村田町だけ見ても男達が動員され女子供だけで守っていた女館,鎌倉軍に抵抗し千人の僧が焼き殺された霊感寺,無数の兵の遺体を埋葬した千塚などなどである。戦はあったとしても半日に満たなかったはずだが、当地では鮮烈な記憶として残るほど苛烈なものだったようだ。不思議なことに、戦場になったことが確かな福島県国見町や宮城県蔵王町の方が残された伝説は少ない。
 『村田町史』は歴史上存在しないことになっているこの戦いを「この世の極楽といわれたこの地は忽ち地獄と化した。頃は、残暑のきびしい時節で稲穂も実りはじめたのであるが忽ち兵士に、ふみにじられた。そして、あちこち倒れ伏す死体、それにとりすがって泣く肉親たち、死臭、鼻をつき、蝿などむらがったことだろう」とかなり想像の翼を広げ、臨場感溢れる描写をしている。

 こうして奮戦していた高直だが、ついに支えきれなくなり、討死に至る。阿津賀志山の敗北が八月十日のことで、蔵王方面の戦いも同日中に決していたことから、高直の討死は十日か十一日早朝と郷土史家の一部は見ている。
 韮神山の周辺では、西麓に高直が奮戦した輝(照)井橋と彼の首を洗った首洗い池があった。山頂の西北には墓もあるという。
 高直の死には別説があり、大崎市の丸山館に立て籠もったが、鎌倉軍に攻められ妻子ともども焼死したという話もある。

 高直の死の直後、韮神山南の大河原町小山田六角で不思議なことが起こった。里人たちが戦から身を隠していると、どこからともなく全身に矢が刺さった馬が駆けてきて倒れた。その立派な馬具と、主がおらず傷ついた様子から里人は高直が討死にしたことを悟った。馬はしばらく立ち上がろうともがきながら地面を蹴り、なんとか立ち上がってまた歩き出したものの、すぐに深田に足を取られてまた倒れ、息を引き取った。
 高直の馬が蹴った箇所からは清水が湧きだしていた。里人はこれを清水井戸と名付け、長らく重宝した。また、水をもたらした高直の馬を供養するため、馬頭観音の石碑を建てたという。
 武将の馬が蹴った地面から水が湧き出るという話は、他にもいくつかみられ、類型のある話である。また深田にはまったというのも、同じ大河原町内で国衡の馬が深田にはまって動けなくなったという伝説との関連を連想させる。それでもここでも高直には、いや照井太郎には水の伝説がまとわりつくようである。

 不可思議なことは、さらにある。
 毎年七月七日(あるいは正月七日)の早朝、韮神山の付近に雲のようなモヤがかかる。それはあたかも数本の白旗、または甲冑の形に似ており、それを見た者は必ず病になるという。そのため韮神山西北の住民はこの日は遅くまで寝ていることとし、このあたりは朝寝屋敷とか不起臥(おきずふし)の里とか呼ばれるようになった。
 モヤは高直の無念の現れとみる向きもあり、ここでも「水」にまつわるものが関係してくる。

 韮神山には一度行ったことがあるが、夕暮れ時ということもあって、鬱蒼と木々が茂った山の雰囲気と、江戸時代に安置された古びた石造りの三十三観音像があいまって少々不気味でもあり、怪談話が生まれるのも納得である。山頂からは周辺の平野部を一望でき、ここから押し寄せる鎌倉軍を見ていた高直に思いをはせられる。残念ながら山頂にあるはずの高直の墓は気がつかなかった。

 奥州合戦が終わると、里人達は韮神山近くに寺を建て、高直と殉死したという妻の菩提を弔った。しかし、ほどなくしてこの寺は焼失。仁治元年(1240)に、大河原町に寺を再建したため、その地は新寺村という名となり、高直の法名が「洞秀院月渓円水居士」だったことから、洞秀院という地名も生まれた。また「水」である。
 この寺も江戸時代に二度目の焼失をした後は廃寺となってしまった。今では大河原町の香林寺が、高直夫妻の位牌を安置している。
 香林寺の住職に問い合わせてみたところ、確かに高直夫妻の位牌があるという。公開はしていないようだが、「敗残の将ではあるが、なんとかもっとその名を広めて町おこしになったら良いのですが……」と仰られていた。
 訪れてみると香林寺はなかなかの規模の寺である。位牌を見ることは叶わぬものの、寺の外から手を合わせる。

 栗原市有壁には高直の子孫の伝説がある。前述した通り、有壁は高直が熊野神社を勧請した地である。
 奥州合戦の敗北後、高直の妻と幼い息子である照井太郎はこの地の山林に隠れ住んだ。良質の泉を見つけた妻は、平泉秘伝の製法で酒造りをはじめ太郎を育てた。この酒はたちまち評判となり、成人した太郎が跡を継ぐ頃には「照井長者」と呼ばれるほどの財産を築くに至った。このため、照井家の家紋は酒造りを表す二瓶となった。
 ところが、照井長者の子はどういうわけか十二歳になると死んでしまい育たなかった。黒石寺の旅の僧侶に相談すると、今度子どもが十二歳になったら偽の葬式を出して死んだことにし、黒石寺に預けることを提案した。黒石寺は岩手県奥州市水沢にある東北有数の古刹で、その歴史は八世紀にさかのぼる。なぜここでいきなり黒石寺が出てきたのかは謎だが、奥州藤原氏とも多少は関係のある寺であった。
 照井長者は言われた通りにし、一年間寺に預けてから返してもらったところ、息子は無事に成人した。偽の葬式によって難を逃れるというのは民話でたまにみかける類型だが、高直の血の断絶を願うかのような得体のしれない何者かの意思を感じて不気味である。

 長者になった照井太郎は、その財産で父母の供養塔として五輪塔も立てていた。里人達に酒と引き換えに運ばせた小石に一字ずつ法華経の文字を写経し、それを積み上げた塚の上に建立したという。その建立地を五輪沢と呼んだので、照井長者は五輪沢長者とも呼ばれている。

 その五輪塔は有壁の山林内に現存している。しかも他には平泉町内と一関市内にしか現存しない奥州藤原氏時代に限定して造られた「平泉型宝塔」と呼ばれる特徴的な五輪塔である。このことを知った時は、伝承世界と史実上の遺物がクロスしたことに興奮した。
 もちろん、実在する有壁五輪塔がいくら平泉文化を受けた平泉型宝塔であるからといって、高直の息子である照井長者が実在し、父母の供養目的で建てたことの証明にはならない。2016年に参加した岩手の考古学会は平泉特集で、栗原からも平泉文化の影響を象徴する遺物としてこの五輪塔が紹介されていたが、照井長者伝説にはまったく触れないのも歴史研究者の立場としては当然だと私も思う。
 実際に現地を訪れてみると、有壁の駅から徒歩で30分以上離れた山林の中にその五輪塔はあった。民家の脇から入る道があるが、どう見ても熊が出ない方がおかしいくらいの場所である。
 山林のやや開けた所に小石を積み上げて造った塚があり、その上に大小二基の五輪塔が寄り添うように立っている。これが伝説で言うところの高直夫妻の供養碑であり、おそらく大きい方が高直のものとされているのだろう。その周囲にも三基の五輪塔があり、やはり高直の息子が建立した照井家祖先の供養塔だとのこと。いずれも高直夫妻のものよりは石塚も五輪塔も小ぶりであった。
 歴史と伝説をつなぐ可能性を秘めた五輪塔は、栗原の山林の中に静かに佇んでいる。

照井太郎とは何者か?

 高春といい高直といい、結局彼らは何者だったのだろう。
 これについては、多くの自治体誌や郷土史家が共通の見解をあげている。

 高春の用水路建設、高直の築城と治水伝説が示唆するのは、かなりの土木技術を持った集団の存在である。
 つまり照井氏は、奥州藤原氏お抱えの土木技術集団ではなかっただろうか。
 彼らはまず水利・治水技術に長けた人々だったのであろう。この技術は山城の建設にも応用できるはずである。
 また、奥州藤原氏と言えば、各地の金山を管理して莫大な富を築いており、水利・治水技術は鉱山開発にも応用できそうだが、照井伝説と産金伝説はほとんどクロスしないので、これについては判断保留とする。

 奥州藤原氏は前九年合戦と後三年合戦という二大戦役の地獄から立ち上がり、戦で亡くなった敵味方すべての魂を鎮魂し、奥羽の永遠の平穏を祈るために平泉にこの世の浄土を出現させようとしていた。
 浄土は水の世界でもあったので、建立した多くの寺には池を付随させた。今では二代基衡が建立した毛越寺の大泉ヶ池,基衡の妻が建立した観自在王院跡の舞鶴ヶ池、三代秀衡が建立した無量光院跡の梵字ヶ池が復元され、照井堰用水路から取水して往時のように水を湛えている。
 だが、当時はさらに多くの池があり、それらを繋ぎ水を巡らせる水路が平泉中を巡っており、さながら「水都」のような趣があったことと考えられる。
 ならば、浄土庭園の池を造り、平泉中に水路を巡らせた者たちもいたはずであり、それもまた照井一族ではなかったであろうか。

 もっとも藤原家お抱えの土木技術集団がいたとして、高春や高直という個人がいたかとか、照井一族というのがそうだったかは分からない。ただこの技術集団の存在が、伝説の中で高春や高直というキャラクターを発生させた可能性はあるし、本当に単純に考えて、この二人は実在し、言われているようなことをやっていたのかもしれない。

 もう一つ気になるのは、二人にまとわりつく「水」のイメージである。
 若水の使者、用水路の建設者、治水の英雄、川に沿って広がる照井地名、馬がもたらした井戸、韮神山にかかるモヤ、法名に入った「水」の文字、良質な泉の発見と酒造り……。
 後世、高春は用水の神とされ、昭和になってからも「照井水神」とされた。高直も一部地域では水神のように崇められているという。
 史実上実在が確認できない奥州藤原氏の幻の家臣である照井太郎が、こうも広範囲に、時の流れに消されぬほどの強固な力を持って伝承されてきたのは、人々の水神信仰と結びついたからではないかと、民俗学の素人ながらそんな可能性を考えてしまう。もちろん、その根源には、高春が人々に水をもたらし、高直が水の怒りを鎮めた(治水事業)という、その技術に疎い人々から見れば神話的な力を発揮したゆえであろう。

 水には生命力を更新する聖なる力があると考えられており、平安貴族がよく池に舟を浮かべて遊ぶのも、水の霊力に触れようとしたためとも言われる。平泉中を巡る水路は、この北の地に花咲いた仏国土に常に若々しい生命力を与えていたとも言って良いだろう。
 その水を管理する者は、聖なる力を司さどる存在である。
 昭和の時代になってさえも、高春を「水神」として祀るのは、現地の人々に受け継がれた古い記憶の結実なのかもしれない。

 と、だいぶ妄想が過ぎたところでもう少しだけ妄想を。

 照井太郎伝説は岩手県県南と宮城県県北に集中する伝説だが、実はもう一つ、この地域にのみ集中するウンナン信仰というのがある。
 ウンナンは「雲南」「運南」「運難」または「宇南」などとも表記され、岩手県と宮城県のみで信仰される神である。これは田の神,用水の神,湧き水の神,または子を守る神や雷神としても観念される。ウナギや蛇が神格化したものらしく、この信仰が強い地域ではウナギを「ウンナン様」として食することを忌避していた。

 奥州藤原氏の時代、平泉の東、高春が開削した厳美渓の五串のさらに向こうに骨寺村というのがあった(今は一関市厳美町本寺区)。ここは中尊寺の荘園として寺の活動を経済的に支えた。
 その村の様子を描いた鎌倉時代の絵図を見ると、「宇那根社」という表記が見える。おそらく奥州藤原氏時代からこの地に根付いていた用水や湧き水の神であろうと考えれている。これが後の「ウンナン信仰」になったともいう。
 今ではウンナン信仰に基づく神社は少なくなってきたが、雲南や運南,運難,宇南という地名は岩手・宮城に多数残っており信仰の残滓が感じられる。照井伝説を追っていくと、それなりの確率でこの地名や神社も一緒に見つけてしまう。
 ウンナン信仰は二県に広く分布しているのだから、照井伝説の地と重なっても不思議ではないだろう。しかし、民俗学の素人らしく何か気になってしまう。今後はもう少しウンナン信仰の分布を調べて、何か照井伝説と重なる部分がないか調べるのを課題にしていきたい。

史実と伝説――寄り添い合う川であるように

 ここまで各地に散らばる伝説をもとに照井太郎高春と照井太郎高直の生涯を描きだしてみた。各地に独立してある伝説を一つにまとめてしまう手法は批判もあるかもしれないが、かなり詳細に描きだすことができたと思う。

 皮肉なことに『吾妻鑑』の記録によって実在が確認できる平泉の武将たちでさえ、これほどの伝説はないし、こうも詳細に事跡を追うことはできない。逆に言えば、史実に登場する余地がないからこそ、強固な伝説が残されたのかもしれない。実在しなかったかもしれない照井太郎を存在させようとする人々の綿々と続く意思さえ感じられそうだ。

 
 平泉は、歴史である。かつては史料上の限界があり、伝説に彩られていたが、近年考古学上の発見が進み、平泉研究は数年前の定説はもう通用しないほど日進月歩である。考古学的発見は、自らの記録を文字で残すことができなかった奥州藤原氏の歴史を蘇らせる希望である。
 
 一方、そこに照井太郎の伝説が入る余地はない。
 伝説が伝説止まりで歴史となれないのは、仮に何か仮説を立てたとしても、その正誤を判断する要素が存在しないからだろう。そのため伝説は今まで書いてきたように妄想とも言えるあらゆる可能性に開かれている。それゆえに何も決定することができない。
 例えば、私は奥州合戦で史実の蔵王町方面の戦場と韮神山の位置関係から、両戦場が連動している可能性を書いた。しかし別の見方をすれば、史実の戦場との位置関係から逆算されて、韮神山が高直の戦場として「設定」され、さまざまな話が派生した可能性も同時に存在する。その答えが出る日はこないであろう。

 
 文献史学にも考古学的手法にも基づかない伝説を歴史学のテーブルにあげないことは極めて正しい。歴史は人や国家の願望と結びつきやすい分野で、何でもありにしておくと、容易に適当な伝説が引っ張り出され、一部の人や権力に都合の良い歴史が「創造」される危険に満ちている。誰の言葉かは忘れたが、「伝説とは、史実に取って替わりたがっている物語」であるという言葉は、伝説が歴史に干渉される危険性、厳密によると伝説を歴史的事実にしたい人々の願望を警戒させる言葉なのかもしれない。

 しかし、近代歴史学の論理はやはり排除の論理を内包している。近年は多少改善されてきたが、記録に残らなない、あるいは残してもらえなかった存在は居場所があらかじめ無いのである。

 「伝説は史実ではないが、昔の人々が長く語りついできたものだし、荒唐無稽な逸話も当時の人々の認識を知る上で重要なものではある」というのを歴史と伝説の落としどころとする論理もある。史実と伝説の区別をはっきりさせたい歴史ファンの間ではわりと支持されているようだが、私はあまり同意できなかった。
 結局のところそれは、伝説にも「効能」があるから、私たちが理解し私たちが許す範囲内で存在を認めてあげるという扱いにも思える。歴史学は伝説を無視するが、このような「理解」の仕方は伝説を「伝説」という強固な檻に閉じ込めて籠の鳥にしてしまう態度のように思える。

 もっと伝説との別の付き合い方はないだろうか?
 たとえば照井太郎の物語が、生き生きと存在できる方法は?
 
 答えはそう簡単には出ないだろう。
 だけど私は一つの方法を試してみている。

 それは史実と伝説がパラレルな存在として並存する世界の可能性を想像してみること。
 たとえば、蔵王方面で平泉軍と鎌倉軍が一進一退の戦いをしていたのと同じ頃、韮神山でも戦闘があって、馬が地面を蹴ると水が出てくるようなありえないことが起きる世界があったことを夢想してみること。
 史実の大河の傍らには、伝説の小さな流れが寄り添うように流れていること。川は交わることなく(それは片方がもう片方を呑み込んでしまうことである)、しかし同じ方向に流れ続けている様子をイメージしてみる。

 私は今回、二人の照井太郎の物語を伝記のように書くことで、史実には現れないもう一つの平泉史を描きだそうとした。成功したかはわからない。そのもう一つの平泉史は、日々研究が進む平泉の姿に反論を企てるものではない。ただ、発掘調査に基づいて復元した浄土庭園に照井堰の水が供給されるように、もう一つの平泉史を現実の平泉史のそばに流したかった。
 それが、「照井のこと、吾妻鑑に見えず」と言われ、伝説の中でしか生きられない照井太郎の物語に向かい合う方法だと一人思っている。この方法論はこれからまた変わっていくだろう。

 最後に、私が大いに参考にさせてもらった「照井太郎伝承考」という論文にこんなことが書いてあった。
 「空想は次から次へと跳躍するが、誰か同好の士の研究継続を期待したい」
 1981年にこれが書かれた時に著者はすでに高齢なようであった。私がこれを読んだ時にはもうご存命ではなかったであろう。当時、仙台に来たばかりで、なかなか郷土資料の探索もはかどらなかったのだが、やっと見つけた論文で思わぬメッセージを受け取ってしまった気分だった。
 私のみならず、ネットを検索すると照井太郎の伝説を追っている者は意外と多い。研究継続はなされている、と先人に心の中で返事をする。

あとがき

 長らくマニアックな話におつきあいありがとうございました。
 奥州藤原氏やについては創作も行っています。史実を追っていたはずなのに、なぜか創作すると「歴史×民俗学」な作品が多くなってしまう不思議……。この場を借りて紹介させてもらいます。
 完売したアンソロに収録されていたりするので、なかなか今すぐ読めるものは少ないのですが、今後web上で公開していく計画もありますので、気になったものがありましたら一度お問い合わせください。

問い合わせ先
ツイッター:@dramatic_china
(リプかDMでご連絡いただければ、詳しくいつ公開するか、どこで見られるかなどご案内します)

①『永遠の流れ 黄金のゆらめき』
 源平の争いが激化し奥州も難しい舵取りを迫られる中で偉大な平泉の主・秀衡が倒れた。若き跡取り息子の泰衡は、用水路の建設に勤しむ照井太郎高春から驚くべきことを告げられる。「秀衡様は呪詛されております」と。父を、そして奥州を救うため、泰衡は照井太郎高直とともに夜の世界で井戸の底から這い出てくる悪意と対決する。
 文学フリマ岩手で発行された岩手を題材にしたアンソロジー『イーハトーヴの夢列車』に寄稿(完売)。高春、高直が思いっきりファンタジー設定で、ウンナン信仰や井戸の民俗も絡んできます。

②『帰郷』
 江戸中期、漂白の博物学者・菅江真澄は約20年ぶりに平泉を再訪する。秋田で出会ったある奇妙な同行者の記憶を取り戻すために。遠い昔にこの地で誰かと交わした何かの約束を思い出したいと言いながら、思い出すことを拒否するその「モノ」に、真澄は平泉の物語を語り続けるが……
 2018年6月の第三回文学フリマ岩手発行の『イーハトーヴの夢列車』第2弾に寄稿。舞台は江戸後期、でもがっつり平泉。30年近く東北と北海道を旅し、人々の暮らしの記録を膨大に残した江戸時代のフィールドワーカーにして日本民俗学の先駆・菅江真澄が活躍。秋田の平泉伝説や岩手の小正月行事が絡んできます。

③『奥州藤原氏史跡・伝説事典』
 奥州藤原氏およびその母体ともなった安倍氏と清原氏にまつわる東北六県の史跡と伝説を各県ごとに紹介。
 現在、岩手県編を発行済み。岩手県内の計17市町村、128件の史跡・伝説を扱っています。(平泉町・一関市・衣川区などは別冊で出す予定なので岩手県編では扱っていません)通販は一定期間のみ行っています、お問い合わせください。
 その他の県も順次発行予定です。

 最後に、このような場を与えてくださった主催者様に、ご期待に添えるような題材や質のものを作れた気はしませんが、深く感謝申し上げます。

主要参考文献

全体編
佐瀬孝夫(1981)「照井太郎伝承考」,『ひろば』15p22-31,迫町公民館
狩野義章(1975)「照井太郎高直の遺跡考」,『栗原郷土研究』7 p28-32, 栗原郡郷土史研究会
西田耕三編(1999)『「炎立つ」とわがまち』,宮城地域史学協議会
西田耕三編(2004)『奥州藤原四代とわがまち』,広域歴史シンポジウム実行委員会

照井太郎高春編
世界遺産平泉ゆかりマップ http://www.hiraizumi-yukari.com/
水土里ネットてるい http://terui1170.com/
『ふるさと中里探訪』出版事業委員会(2000)『ふるさと中里探訪』,『ふるさと中里探訪』,出版事業委員会
千田一司(2008)「“郷土は語る”徳尼公と三十六人衆・泰衡の遺児萬寿丸」p120-125,『一関ふるさと学習院文化講座収録  第2編』,一関文化所

照井太郎高直編
宮城県神社庁(1976)『宮城県神社名鑑』,宮城県神社庁
狩野義章(1975)『一迫の民話 第2集』,築館プリント
村田町史編纂委員会(1977)『村田町史』,村田町史編纂委員会
大河原町史編纂委員会(1982)『大河原町史 通史編』,大河原町
大河原町史編纂室(2005)『大河原町史 通史続編』,大河原町
及川儀右衛門編(1976)『みちのくの長者たち』,未来社
岩手考古学会(2016)『考古資料にみる「平泉」とその周辺』,岩手考古学会

奥州藤原氏おすすめ本
岡本公樹(2014)『奥州藤原氏と平泉』,吉川弘文館
斉藤利夫(2014)『平泉 北方王国の夢』,講談社
岩手日報社(2008)『あなたと歩くとっておきの平泉』,岩手日報社

その他
三崎一夫(1995)「雲南権現について」,『宮城の民間信仰その他』,セイトウ社
※ウンナン信仰について
入間田宜夫(2002)「中尊寺領の村々の歴史的性格について」,『ちめい』16p4-16, 宮城県北部地名研究会
※宇那根社について
保苅実(2004)『ラディカル・オーラルヒストリー』,御茶の水書房
※最後の史実と伝説との関わり方について、ここから教えられることが大きかった

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